最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
最近の記事+総記事数
FC2カウンターリンク発売中ブログ内検索メールフォーム |
夏の八甲田
今週、カレンダーの仕事ひとつ片付けたら、行くつもりです。青森は、雨量どうでしたかねえ。梅雨はほとんど青森まで影響していないような気もしますけど。
雨の日の撮影-カメラレインカバーやっぱり川はいい雨の渓谷へ降りてみよう森と川の歩き方![]() 薮の斜面で夜を明かすという経験をしてから僕は、地図を使いはじめた。 どんな深い薮の中でも、現在地が正確にわかっていればそんなにおそれることはないし、迷うこともない(人生と同じみたいでおもしろいですね)。10歳くらいから歩き始めた十和田・八甲田だけれど、本格的に山に入ったら何度も迷ったわけです。なめちゃいけないなあ、と。 地図は最初はあまり役に立たなかった。というか、ガイドブックなどの地図では役に立たないことを知ったわけです。それで、国土地理院の2万5千分の1地形図を使い始めるようになったのですが、それでもまだまだ使い切れない。読図を勉強しはじめたのはそれからもだいぶ後のことです。 いま思えば、読図ができていれば、 薮の斜面で夜を明かすというビギナーズトラブルは防げていただろうと思うのです。 あの高巻きの場面。読図していれば、あの崖は登っていないし、一度下って高巻きするのに楽な斜面を登っていたはずです。 ただ、地図とコンパスがあれば絶対ということはありえない。地図にもまちがいはあるし、読図にも失敗することもある。林道とか沢は特に毎年変化している。信用しすぎると失敗しますから。 霧と残雪の南八甲田ブナ林3最悪の夜も朝が明ける
迂回して高巻きするしかないゴルジュにぶち当たったのは、午後3時ころだった。テン場の準備に入るかまだ歩くかギリギリの時間帯だった。4mほどのゴルジュの岩壁の右側の斜面に眼をやり、どれぐらいでいけるのか目測してみた。斜度はたいしたことない。根付きのよさそうな低木も程々にある。越えるまで10mくらいだから問題ないだろうと判断した。時間もあまりないから一度下がってから簡単な斜面を巻くという手間はかけたくないと思った。
今考えればそこに判断ミスがあったのだ。 少しゆるい土の斜面の足場を確認し、手を伸ばしてネマガリタケを手繰り寄せ3本くらいつかむ。その状態で足で身体を押し上げてもう一方の手で何かをつかもうとするが今度は何もない。しょうがないので土そのものに指をめりこませて、また足をけりあげて身体を上げる。3本のネマガリタケの支持があれば大丈夫だろうと気にしないで2点支持で登った。実際このあたりの豪雪に鍛えられたネマガリタケはしっかり根を張っていて強いのだ。そうやって8mくらい登っただろうか?ところがそこからが頼みの綱のネマガリタケがなくなったのだ。まいったなあ、と思って下を見た。上から見たらかなりの斜度だ。もう戻れないな。もどるのは危険だ。崖は下る方が倍以上危険なのだ。バランスがむずかしいし先も見えにくい。登って来たおかげで足場も悪くなっている。ふーっとため息をついて登るしかないなと自分にダメを押す。ネマガリタケではないただの草を手繰り寄せる。葉っぱをつかみ破らないようにして根っこまでつかみ、足場を20cmくらい上げてぐりぐり靴を土の中にめりこませる。そうやっておそろしく慎重にのろのろと登ってゆく。崖のてっぺんからハイマツが伸びている。手を伸ばしてようやく葉っぱを手繰り寄せ、枝を手繰り寄せ、太いところまでつかんだ。ゆらして強度を確かめる。大丈夫だ。そうして両手でつかんだら足場が抜けた。だーっと土なだれ。懸垂で必死に這い上がって行く。 やったと思った。ところが這い上がる途中でいやなものをみてしまったのだ。 崖のてっぺんと思ったそこはただのせり出し部でしかなかったのだ。ウー...。上を見たらうっそうとした薮の崖だ。ウッソー!なんて言ってもまるで笑えない。ようやくオレは後悔した。クソッタレ!未熟者の自分を棚に上げてうなり散らす。怒りが崖に向けられているものでないことは、もちろんオレも山の神も知っている。嫌気がさしたのは自分自身だ。ざっと見上げるだけで上りは途方もない労力だとわかる。下りは選択余地がない。転落がありえるからだ。へとへとになっても登るしかないんだなと最終審判(笑。ほんとに現場で薄ら笑い!)を下していた。 それから、いも虫のようにネマガリタケの斜面をひたすら登った。タケは下に向かって伸びている。槍ぶすまのようにこっちにむかっている薮を払いのけながら行くのはただではない。1時間も登るとハイマツが半分くらいになってきた。斜度も半分くらいになった。ところがよけいに進めなくなった。地に這っているハイマツの形状で人っこひとりなかなか通り抜けれないのだ。ましてやバッグを背負ってるからやっかいだ。2時間以上格闘していただろうか?すっかり暗くなっていた。 もうムリだ。暗くなったし、体力も限界。それで覚悟を決めたのだ。ネをあげてここで寝るべえ、と。 低木を股にはさんでロープで身体を木にくくりつけて落ちないようにしてうすらうすらと夜明けを待った。大雨がきたら死ぬかなとうすら笑いながらおそろしい夜だった。カロリーメイトとカワハギとウイスキーをあおって、30分ごとに眼を覚ましながら明るくなるのをひたすら待った。はさんだ木で股がいたくなってずらしながら寝た最悪にしてスーパーな夜!そんなのも気持ちの持ちようさ。ごきげんとも言えるべ、とか思いながら負けず嫌いがせりあがってくる。夏には3時には薄明るくなりはじめる。天候さえくずれなければ何事もなく朝がくるさ。ふん。大昔、メットを被りパイプを抱きしめて砦でぎゅーぎゅー詰めで敵の襲撃を怖れながら寝ていた時よりはマシだ(ほんとか?)とか気慰めに思ったり。 ごきげんな一夜を過ごして、薄明かりのうちにまた登った。ところがそこからはあっさりだったのだ。30分くらいで登りきった。見渡すかぎりダケカンバとブナの美しい混交林が待っていた。 そんな経験を積んでオレも多少は学習した。何を学習したか?サバイバルに体力を消耗すると本業の撮影のエネルギーを減らしてしまうという単純なこと。で、それからは少しスタイルを変えた。使える装備や機材は利用する。やることの順番をもっとはっきりさせる。撮影第一。撮影地までスムーズにたどり着くことが第一だと思い直した。 それでもそんなに単純じゃないのさ。山では計画どおりはありえない。あくまで一般論の話。つねに具体的戦術だけが必要なんだ。 つらい日もある。でもやがて夜は明ける。ほんとにそんな一日でした。 キャンプの岩魚料理
ちょっと見栄えの悪いムニエルですねえ(苦笑)。岩魚は少し水分が多いので風にさらして水気を切るべき、と反省。次回は小麦粉を持って行こう。
岩魚は現地調達できる貴重なタンパク源。ただ、毎回、塩焼きと刺し身と薫製だけじゃああきてしまう。それで最近は少し荷物になるけど、ゴマ油を持って行くようにしている。これはなにかと重宝で、ゴマの香ばしさが山行の食生活そのものに活力を与えるのである。ゴマ油があれば、身を食い尽くした後の骨をカリカリに焼いて唐揚げもできる。 山では、栄養とカロリーと携帯性だけを考えればいいというわけでは決してない。山でもやはり食事は生きる活力のもとだし、豊かな食事は、ストレスが多く萎えがちな山行のエネルギーを充填してくれるものだからだ。僕はコーヒーだってインスタントではなくてドリップしてちゃんと沸かす。それがしばしば味気ない山行を豊かにしてくれる。蕎麦やスパゲッティなども持って行く。酒も贅沢する。わずかな重量の差でそれができるならそれをいとわないという方が大事なような気がするからだ。効率主義は都会でも山でも味気ない。生き延びるエネルギーとはそこからは決して湧き出て来ない。朝一杯の清流で沸かした最高のドリップコーヒーは、まちがいなく疲れを半分に減らしてくれるのだ。 ![]() ![]() 単独行はなぜなのか?
足でも折ったらどうするの?
と時々聞かれるけれど、そんなこと、おれだってどう答えればいいのさ? 折った足を引きずってでも下りてくるしかないでしょうが。痛すぎて歩けなかったらくたばるしかないべさ。何日待っても誰も来やしないよ、南八甲田の源流なんて。 何を聞きたいの?と中田ヒデみたいに睨み返したくなる。 単独行はあぶないよ、と言いたいわけだな、ほとんどの質問者は。 そりゃあ安全を考えたら一人よりは二人、二人よりは三人の方がいいに決まっている。 じゃななぜかって? めんどくさい。スケジュールが合わない。ペースが合わない。 思い立ったらぱっと準備して明日にでも行く。目が覚めたら3時でもテントをたたんで歩き出すし、気に入った光線が来ないと2時間でも寝て待つ。そういうペースを許容できるパートナーがいるならいつでも単独行をやめる。荷物も減らせるわけだし。食事も楽しくなるし、怖さも激減する。 例えば、ゴーロ帯では、ひとりではとても越えられない巨岩の連続でも肩車できる人がいればすんなりと遡行できるだろう。直登できる滝も格段とふえると思う。沢に降りる崖の下降にしてもきっとそうだ。 でも、人がいた方がいつでも安全とは限らない。人に気を使っていると判断力や観察力をにぶらせる場合もあるのだ。ひとりならば、いつでも地形と天候と時間を計算してピリピリと神経をとぎすませながらベストの行動を導きだしてゆくが、二人三人ならそれも緩んでしまう。 だから単独が多いのは、人に気を使って疲れるのを恐れているという点も否定できないかな。 しかし、だからこそ安全に細心の注意を払う。最近は、地図もコンパスも高度計や気圧計(時計についている)も持って行くし、コンロや携帯食料すら持って行く。乾燥ネギやインスタントスープやらも持つ事もある。岩魚が捕れりゃ薫製の岩魚でスープは作れる。キノコが採れればキノコ汁ができる。春先ならバッケのみそ汁も簡単だ。でも何もとれない場所で野営せざるをえない場合もある。 最悪の野営というのが過去にあった。本格的に山行をはじめた最初のころの、つまり経験も知識も足りない未熟者のころの話だが、ハイマツとネマガリタケの薮斜面で明かした最悪の夜....(生きているんだから最悪じゃないけど、)話の続きは次回。 霧の原生林をゆく3森の深さ、写真のむずかしさ
森の写真はほんとうにむずかしい。みなさんも撮ってみればわかると思う。
なんだこの写真、木と葉っぱが写ってるだけじゃないか、というような単調な写真になりがちなのだ。 なぜだろう? それは、写真には、気配 が写らないからなのだ、と思う。 森に深く入るとものすごく気配を感じる。あらゆる生き物の気配というものを感じる。 気配とはなんだろう? けものや鳥や植物たちの息吹き。においとか音とか空気の震えとかで感じるもので、それは写真のような視覚的なもの以外の感覚が大きいもの。 だから、深奥の森にいると、安易に、すごいところへ来たなあと感嘆してしまう。そして夢中になって写真を撮る。それを家にもどって現像してみると、さっぱりその時に感じたものが写っていないということが多いのだと思う。 気配までなんとか写してやろうというのが以来一貫して僕の森の写真のテーマになった。 ![]() ブナの古木のやさしさ![]() 大きな古木に寄り添って立ち、見上げると眼がじんわりと癒されるようです。新緑の薄い黄緑の色そのものも眼にやさしいのです。 でもそういう実証的効用主義的なことだけではないものを感じる。豊かなブナの森そのものが持つ慈愛に満ちたような寛容さ、やさしさと言ってもいいようなもの感じるようになる。断崖の山、険しい稜線などを歩いている時とちがうものを感じます。不思議なことです。だって僕は、やさしさとかにはかけ離れた人間ですからね。少なくとも都会にいる時は(笑)。友人の某コピーライターが言ってました「暴走機関車フォトグラファー」と、僕のことを(苦笑)。 たったひとり深奥の森に入ると、たった一本のブナにすら圧倒されてしまう。悩んだり心を病んだりしてるのは人だけですね。森の生き物は、春になるとみんな今しかないよと精一杯目一杯葉っぱを広げてるし、けものも虫けらもシネグレなんです(シネグレ=南部弁/死にものぐるい。一生懸命)。おだやかに諭される森。 赤沼への道は、 |