写真家の山暮らし

Photos of Japan north country and the Photographer’s Journal 南八甲田の麓、奥入瀬川のほとりの山のスタジオからNature Photoを添えて日誌を綴っています。2012.3.11に恵比寿のスタジオをこちらへ移転しました。

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バイカモの清流

バイカモ1


バイカモ2


バイカモ3


CanonEOS5D/EF17-40mmF4L 1/2秒 F11 ISO100 RAW現像 Adobe Lightroom 2006.11
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2007.01.30[Tue] Post 11:28  コメント:0  TB:0  バイカモ  Top▲

グダリ沼の自然4

グダリ沼を最初に訪れたのは、もう40年も前のことですが、記憶は定かじゃないけれど、もっと水量が多くて、岩魚もあふれていたような気がしますね。ここの湧水量は日量20tにも達するのですが、年々減っているそうです。ここは源流と言えるほどの奥地じゃないので少し心配です。実名明記をためらわれたけれど、井伏鱒二も開高健も本に書いているし、青森市の広報にも載ってるくらいですから、今更僕が秘してもしょうがないかなと、、、。だけどここで釣りはやめてほしい。バイカモにテグスをとられるのがオチですから。釣るならもっと奥に入ればいいけど、ズボズボの沼地と薮で入るのも抜けるのも困難を極めるところです。それから水はきれいですけど、まわりが放牧地なので飲むのはよした方がいいでしょう。
 バイカモの他にもスギナモ(近い将来に絶滅の危険性の高い種である「絶滅危惧種B類」)とかクレソンとか自生してますね。
グダリ沼6



グダリ沼7



グダリ沼8



グダリ沼9

スレッド:風景写真 / ジャンル:写真

2007.01.29[Mon] Post 11:41  コメント:0  TB:0  八甲田山歩きの旅  Top▲

この下から八甲田山の湧水がふつふつと湧いている

グダリ沼4


川の流れは、上の写真の奥の川から続いていますが、とめどなく湧水しているのはこの下の写真のあたりです。
晩秋なのに、苔もバイカモも生き生きとしていますね。2006年11月。

グダリ沼5

2007.01.26[Fri] Post 12:30  コメント:0  TB:1  八甲田山歩きの旅  Top▲

バイカモの大群生

グダリ沼1



グダリ沼2


グダリ沼3


ここはグダリ沼と呼ばれてますが実際には川です。ただ少し下流に下るとズボズボの湿地帯と薮地獄にはまって抜け出せなくなるところもあるので要注意です。
2007.01.25[Thu] Post 13:10  コメント:2  TB:0  八甲田山歩きの旅  Top▲

バイカモがたとえようもなく美しい

F沼


この沼というか川は、昔、開高健が八甲田にきて酸ヵ湯温泉に滞在した時、宿の主人に紹介されて岩魚を釣りにきた場所である。
一匹も釣れなかったらしいが、それは彼のせいだけではない。ここはあまり釣れないのだ。
僕が主人だったらここは紹介しないけどね。たしかにここは岩魚が泳いでいるのが見える。でもどういうわけか釣りには適さないのだ。やはりここは見るだけにしろと山の神様が言っているわけよ(笑)。
このバイカモの見事な群生!ここの水とバイカモは、八甲田山中でも特別に美しい。夏には白いバイカモの花が咲く。
ここは川であって、まだ上流があるのだけれど、このあたり一帯で、水がふつふつと湧いている源流でもあるのだ。

バイカモ


 <続く>
2007.01.24[Wed] Post 14:07  コメント:5  TB:0  バイカモ  Top▲

森に癒される

ブナ林


紅葉


心にしみいるような深林、頭を突き抜けるような鮮やかな紅葉の森を抜けて、明日から、こんこんと湧水するあの沼へ行ってみようと思い立った。これがまた素晴らしかった。次回。

スレッド:癒される写真 / ジャンル:写真

2007.01.22[Mon] Post 13:59  コメント:0  TB:0  ブナ林  Top▲

あふれる生命力を感じさせる苔(訂正シダ)

苔


苔22


苔3


すごいですね。この伸び具合。まだ生まれたばかりの新しい苔のようです。気がつかずに通りすぎようとしたら、行く手をさえぎるように足元に伸びていた。
(訂正。シダでした。あおい森さんからの指摘コメントありました。)
2007.01.19[Fri] Post 15:54  コメント:2  TB:0    Top▲

湿原の不思議な紅葉

湿原の紅葉1


湿原の紅葉1



湿原の紅葉3


湿原の紅葉4


温泉の源頭部を越えて行くと、突然、眼の覚めるような不思議な美しさの湿原に出た。黄緑と鮮やかなワインカラーの配色は、宝石のようでした。
2007.01.18[Thu] Post 12:36  コメント:0  TB:0    Top▲

酸ヵ湯につながる源泉?

源泉は、すぐに見つかりました。硫黄が吹き出て白いたまりになっていましたから。
このあたりは、掘ったらすぐ温泉に当たるんじゃないかな?
北八甲田には硫黄岳というのがあるし、酸ヵ湯(すかゆ)温泉にもつながっているんでしょう。
酸ヵ湯(すかゆ)温泉の名前の由来は、鹿湯(しかゆ)という説もあります。ここで待ち構えていたらカモシカが来るかも?酸性の湯であることもたしかですが。混浴の千人風呂で有名ですが、このあいだideoくんとT林くんと行った時は、けっこう若い女性が入ってましたね。さらしのような入浴着を着けてました。きっと貸し出しするようになったんでしょう。水着よりは情緒があっていいよね。うん、ずっといい。前はバサマばっかりでしたから^^;あ、ぜんぜん着けてない人もいましたよ。僕は近眼なんで眼を一生懸命凝らしたけどよく見えなかった(笑)。
源泉



源泉源流



源泉源流2

2007.01.16[Tue] Post 11:02  コメント:0  TB:0  温泉  Top▲

死体と死と自然と向き合うことの意味

死
合掌。

この写真をのせれば波紋を呼ぶかもしれないと思い、しばらく悩んだのだけれど、でもその悩んだあいだに考えることも多かった。それは自然と社会について、あるいは環境問題についての根本的なことだと思われるのであえて掲載するけれど、けっしておもしろ半分でのせたわけではないことをわかってほしい。
 
 この死体を奥深い山中で発見した時、僕はやはり気持ち悪かった。不気味だと思った。
ところが、そのまままた山に入って4、5日野営している間になんでもなくなったし、気持ち悪さもなくなってきたのだ。
 なぜだろう?
 たぶん簡単なことだ。人間も自然の一部であるということをいやがおうにも受け入れざるを得ない状況にいたからなのだと思う。人と誰にも会わず人工物を一度も見ることもない奥深い山中で単独行を何日か続けていると、人もただの生き物である、人間ではない、人と人の「間」はない、ただの人なのだ、人という種のただの生物である、死ねば土に還るだけだ、ここではそうやって多くの生き物が死んだり生まれたりしている、人の死もその一つに過ぎないのではないか、そういうふうに思えてきた。あの死体は、自分の将来である。人が死ぬのは100%確実である。霊魂などない。死体になるだけである。死の意味など考えているのは大自然の中で人間だけである。だからどう考えてもおかしい。自然のひとつに過ぎない人間だけに特別に死の意味とか霊魂とかあるはずもない。他の生き物と同じように死に、同じように土に還っていく。その土が土壌になって草木や生き物たちを育てていくのだ。そういうものとして自然に循環していく。そういうあたりまえのことを僕は、死体発見後の何日かの野営の間に再確認したのだ。そうしたら、すーっと気持ち悪さが消えたのだ。そうだ、自然界の生き物たちは、ただシネグレに生きている。岩魚はまづめ時になるとシネグレにエサを追いかける。敵が近づくとさっと岩陰に潜り込む。それ以外の時は悠々と泳いでいる。ただ気持ち良さげに遊泳しているように見える。運悪かったら死ぬし、寿命がきたら死ぬ。それまでただ生きているだけだ。ただ生きていることが美しい。ヤブ蚊が僕の手に取りついて血を吸っているのもシネグレなのだ。(シネグレとは、南部弁で、一生懸命な姿勢のこと。死に物狂いからきているのかな?蚊もシネグレだと言ったのは僕の母親である。川の撮影で長時間露光をしていて、レリーズを2分ちかくじっと握っていた時のことだ。十匹近くの蚊が手にはりついたのだけれど、レリーズを放すわけにはいかないのでそのあいだにすっかり食われて腫れ上がってしまったということを話したら、僕の母親は「ヤブ蚊もシネグレだな」と言ったのだ。蚊もシネグレだと?おかしな考え方をするものだと僕はその時に思ったが。)

 この再確認したこと、つまり人間は自然のひとつにすぎないということを忘れてしまうと環境問題はわからないのだ。都会という人工物のかたまりの中で生活しているとこのあたりまえのことをわすれてしまう。人間が自然をコントロールできると勘違いさえしてしまう。だから自然を破壊しても平気になってしまうのだ。

 僕が最初に死体を不気味なものと思ったのは、やはりそういう都会的なものの考え方にとらわれていたのだ。自分も自然の一部であるということを見失いかけていたのだ。

 僕は、ここ9年近くの間に何百日もひとりで南八甲田で過ごして多くのことを学んだような気がする。それはまず何よりも、自然を相手にするには都会的な考えでは通用しないことがあまりにも多いので自然と身に付いてきたものだ。頭で考えてきたわけではない。身に付いてきたのだと思う。僕がいろいろものを言っていることは、たいした考えではない。肉体に染み付いたことを時々言葉にして整理しているに過ぎない。頭の中でこねくり回して考えたことではない。
 例えば、自然を相手にすれば、我慢し辛抱しなければならないことがいつでもある。嵐の中ではじっと待つしかない。無理をすれば死ぬ。夜まで「残業」すれば目的地まで着くわけではない。しょうがないということがいくつもある。人間の計画通りにいくことなんかあんまりない。地図を見て作成した計画通りに進んだことなどほとんどない。自然は不規則で何をしてくるかわからない。柔軟に対応しないと疲弊しきってしまう。「せっかく連休をとったからこういう計画であの山までいくぞ」というようなスタンスだと遭難したりする。また逆に、根性を出す時には出して夜になる前に野営地までたどりつくということをやらないと大変なことになる。自分の勝手にはいかないのだ。自然と対話して折り合いをつけてやっていくしかないのだ。グループ行動でも遭難が多いのは、自然と折り合いをつけるという第一義のことを忘れて、仲間との折り合い(人間関係)を優先させたりするからなのだと思う。ここでは人間関係が大事なのではない。自然との関係が大事なのである。自分の体力ではもうこの谷を下るのは無理だ、もうテン場を確保した方がいいと感じはじめている、そういう時、ほかの仲間はまだまだ行けると主張したとしよう。こういう時、体力ある方についていくという選択をしたとしたら、かなり危ない。山で、人間関係を重視するという選択をしたら命にかかわることになる。
 予測、計画、あるいは科学的思考ではとらえられないことすら大自然の中では時々現出する。森の中でテントを張って寝ていて、ずいぶんとテントの外からの気配を感じてぞわぞわしたことがある。朝起きて、まわりを歩いてみると、糞と足跡がいっぱいあってたしかに昨晩はけものがいたのだと思い知らされたことがある。気配とはいったいなんだろう?現代人が気配というものを感じる能力があるのだろうか?と疑ったりするが現実に眼にすると納得するしかない。他にも不思議な経験というものがいくつかあった。あまり並べ立てると「おまえおかしいんじゃないの?」と言われそうなのでやめとくが、でもそういうものは、ただ現状では科学的に説明しきれないだけの話であって、それはただ単に人間の科学がまだ自然そのものをとらえきれていないだけのことにすぎないのだと思う。そういうことをただむげに否定するのは、その方こそ非科学的態度である。というかそれは、人間が自然に対して優位に立っているという傲慢さの裏返しですらある。世の中、理解できないことはいっぱいあるものだと僕は思った。だから全部を理解しようとすることがおかしいのだ。傲慢なのだ。都会的なのだ。非自然的態度なのだ。すべてを知ることなどできない。これが絶対だということも自然界ではあまりない。だいたいこういうものだというスタンスがたぶんすごくいい考え方であると僕は思うようになった。

 今言ったことは、自然と向き合う時のはなし、これが都会にもどってくるとかなりちがう。ちがうスタンスが必要になってくるのだ。だから僕はしょっちゅう戸惑っているが(笑)。なぜ戸惑うのかって?それはやはり「都市の論理」と「自然の思想」は対立しているからですよ。

 僕は写真集「南八甲田の森をゆく」で、少しだけ老荘の思想をとりあげたけれど、老荘というのはあきらかに自然と向き合った思想なんですよね。その反対が孔子とかの儒教かな。漢の時代以降儒教が盛んになって中国の都市文明が完成してきたといっていい。それはまさしく、森林伐採がどんどん進んだという時期と一致する。ヨーロッパで言えば、古代ギリシャとかケルト文明のころは自然の思想優位であったけれど、都市文明が全ヨーロッパに広がるなかでそういう思想が排斥されてゆく。それとともに森林伐採は極限まですすんだわけです。この時期にほぼブナ林が消滅した。ギリシャやケルトの多神教がなくなって絶対神のキリスト教に統一されていった時期でもあるというのが興味深い。誰でもわかるでしょ?都市化というのは森林を伐採して広がってきた歴史です。そういう意味でいえば「都市の論理」が「自然の思想」と対立してきたのは当然とも言えるわけです。僕が拙写真集で少しばかり言いたかったのは、そういう都市の論理(=近代の論理)というのは、そろそろ賞味期限が切れてきたぞと言うことでした。成長主義、生産力至上主義というのも見なおさなくてはいけないし、IT化が進めばユビキタス社会が到来するというような話もあまりにも能天気で無反省じゃないかと思うわけです。進歩ばかり見ているとその対極で失っているものが見えなくなる。

 「環境問題なんかどうでもいい。そんことより金かせぐことで忙しくて構ってられないよ。」こう思っている人はいっぱいいる。こういう人は、だからまだ、自分の身体もまた自然そのものだという理解が足りないのである。
 ただ僕も全面的に「地球にやさしい」生活に取り組んだりとか、環境問題に取り組んだりしているわけではない。そんなにくそまじめでもないし純粋でもない。逆に純粋というのはあんまりよくないとさえ思う。自然界だって純粋じゃないですよ。純水というのを作れるのは人間だけです。清冽な水だっていろんなものが混じっているのだ。デジタル写真だってノイズレスで端から端まで鮮明に写りすぎてしまったら味も素っ気もない。人はそれがいいのだと時々勘違いする。それはダメだし危ないんだ。純血主義というのはたいがいろくなもんじゃない。原理主義というのはたいがい危ない。ナチスやスターリンもそうだしオーム真理教もそうだしアメリカの市場原理主義もろくなもんじゃない。日本も大和民族うんぬんとか言い始めたらろくなもんじゃなくなる。純粋があんまりよくないというのはそういうことで、要するに人の意見を聞かなくなるから危ないのだ。環境運動やってる連中にもこういう類いがいる。どこどこを一切立ち入り禁止にしようとかクジラを食べるのをやめようとか言っている人たちだ。なぜこうなるのかと言うと、自分達の考えが絶対正しいと思っているからそうなるでしょ。禁煙運動だってそうさ。タバコは身体にあまり良くないみたいだからなるべくやめた方がいいかな?というぐらいがいいのだ。ところがアメリカ人にかかると悪いものは全部排除しようということになる。イラクを攻めてるのと同じスタンスじゃないか。そもそもプロテスタントというのもキリスト教の原理主義みたいなものでしょ。だから絶対的なものの考え方をしたがる。こういうのは自然の教えに反するんだよね。

禁煙運動はなんだか危ないということを僕は何度かHPなりブログなりMIXIなりで書いてきたけれど、実はここに重要なことを含まれていると思うからだ。悪いものを全部排除してしまおうという考え方は、極論すれば自然の生態系を破壊してしまうに至るからだ。僕は以前の日記で、「なぜ熊を何千頭も殺すのか?」と書いた。それはたぶん、殺す側の論理として、熊は危険で有害だからだし、熊を殺したって人間の生活にたいして影響はないからだ。ここが問題なのだ。この論理は、今見えているだけのことなのだ。自然のシステムというのは微妙なバランスで成り立っている。それを人間の勝手な都合だけで排除したらバランスがくずれる。他の多くの生き物たちに影響を与えてしまうのだ。シカが増えすぎて森林破壊の影響が大きくなっているということも前の日記で書いたけれど、これもつきつめるとオオカミという「危険」で「有害」な動物を明治時代に絶滅してしまったという問題につきあたる。最大の天敵であるオオカミがいなくなったおかげでシカはどんどん増えた。それなのにシカは手厚く保護されている。そういうおかしなことを人間がやっているわけだ。他にもDDTをつかった「害虫」の絶滅的な駆除とかあるいは「ばい菌」を絶滅しようという試みとか、人間は人間側だけの都合で自然を支配しようとやってきたのである。そういう考え方は良くないと最近わかってきた。自然界には「害獣」も「害虫」も「ばい菌」もない。「生物多様性の法則」があってどんな生き物も欠かせない存在なのである。自然はそういうシステムとして機能している。この多様性が欠けていけば全体のシステムも崩壊しかねない、ということがわかってきた。それは多分人間の社会でも同じことなんです。優秀な人間だけを残す(ナチスの優生学)とか悪いものを排除するとか「ダメな」人を蹴落とすとかやってたらおかしな社会になると思いませんか?だから禁煙運動を考える場合に、タバコの健康に及ぼす害という面だけをとりあげて、全面的に全ての人に禁止にするという考え方はやはりちょっとおかしいと思いませんか?そういうのをやっていたら「持続可能な社会」には到底なりえないと僕は思う。持続可能な社会というのは、いろんな種、いろんな人、いろんな考え方を排除しないこと、むしろ数多くの多様性を包んだ自然こそ豊かであるという自然の教えに依って立たないと成立しないと思う。それは、人間だって自然の一部でしかないわけですから。だから、禁煙運動がなぜ良くないと思うかというと、それが純粋主義、原理主義だからなんだよね。純粋がなぜいけないか?そういうのって人の意見を聞かないでしょ。人をよせつけないでしょ。それがだめなんだ。例えば環境原理主義みたいのもあって、やっぱりそういうのはうそくさい。「環境破壊には絶対反対だ」というけど、それは無理でしょ。生きてるかぎりはどっかで環境破壊しているんだ。車に乗らない人ってあまりいないでしょ。自家用車には乗らなくても電車や飛行機には乗るだろうし、石油だってどこかで使ってる。現代社会で完全無公害の生活なんてありえない。だからって、何やったって無駄だというのはちがう。できるだけのことはやっていこうと。そういうスタンスの方がほんとらしいし、楽だし、長続きする。長続きしなきゃ意味ないんですよ。タバコは健康に良くないから絶対反対だとか言ったって、そういう人は絶対石油を使っていないと言えますか?言えないですよ。肺ガンの元はタバコよりも大気汚染の方が大きいと僕は思うよ。だから、ここでもこれぐらいにしておいた方がいい。「タバコは身体にあまり良くないみたいだからなるべくやめた方がいいかな?」と。

 タバコの問題ばかりとりあげるとまた僕は周囲との関係がギクシャクするだろう。この状況が僕は都会的だと言っているのだ。だから疲れる。僕は違和感があることに対して「それはおかしい」とストレートにものを言う性分だ。だからあちこちで関係がまずくなる。喧嘩を起こしたりする。話を丸くおさめるような方向に持っていけばいいのにそれがあまりできない。だから都会では戸惑う。もう少し大人になれとさえ言われる。そう言われると僕でも相当消耗する。
 だけど、そういう都会での社会に対する「スマート」な向き合い方を、自然に対してとったらどうなるのか?前に述べたグループ行動のように遭難するのが落ちである。違和感を丸め込むというスタンスをとっていたら自然を知ることはできないのである。老子に「大道すたれて仁義あり」という言葉がある。「仁義」とはいま日本で使われているのとは少し違う。人とのつきあい方とか人間関係のルールとかいった意味だ。それを老子は、「大道(=大事なこと)」に対して小さなことだと言っている。それはおかしな世の中だと警告しているのだ。

 話が少しとりとめもなくなってきたけれど、死体の話だった。不気味だなと思った気持ちがだんだん消えていったということの話だった。それが、人間も自然の一部であると理解することで消えていったということだった。
 じつは僕は去年の春に友人を亡くしている。どうにもその事実を受け入れがたくてもがいていた。気持ちの悪いものだったが、これもまた死体発見以降、冷静に受け止めるようになった気がする。死んだら死体になるだけなのだ。自然界の生き物はただシネグレに生きている。たまに悠々と生きている。ただ生きているだけで美しい。人間もそれでいい。運が悪ければ死ぬし、寿命がくればみんな死ぬ。100%死ぬ。そうやって自然の循環に還る。だからそれまでに岩魚やテンや熊のようにシネグレにいきていけばいいのだと。シネグレに生きればいい。人生は生きるに値する。

 僕が言ってるのは、都会を否定して田舎にもどろうとか、近代を否定して古代に還ろうとか、そういうことではない。人間も自然である。都会は人間が作ったものである。都会にいようとも自然のルールを守らないといけない。都会のルールはあくまでも自然のルールの下位なんだ。それは、都会がなくても自然はあるが、自然がなければ人間も都会も存在しえないからだ。だから、自然の教えを大事にしないといけないということです。

 たったひとつの死体とそれに対する違和感を引きずって山中を歩いたことで、ずいぶんと多くのことを思いいたったものだと思う。僕は数年前に「幻色の都」の”筆を置く”時、次のように書いた。

 「川を基軸に見ると『幻色の都』は下流の写真であり、『南八甲田』は上流の写真である。
 森は水と土と酸素を作り下流に運んでいる。川によって運ばれたものは下流域で平野を造成しそこに都市が作られる。上流の森や川はきれいな水や土や酸素をどんどんつくり下流へ送り、下流の都市はそれをどんどん消費して汚している。それなのに傲慢になった都市(=人間)は山と森と川をどんどん開発しつくそうとしている。発展し進歩を続け傲慢を助長させた都市の人間は自分の生みの親をも食い尽くそうとしている。そうやって多くの人間の文明が砂漠化してきたのにいまだに気づこうとしない。科学技術が砂漠化を食い止めることができると慢心している。四千年、五千年の歴史をいまだに悔い改めようとしない。
 都会の美しさは幻色である。僕の下流の写真は疑惑である。」...と。
 
 少し苦しい言い訳であった。だけど今になって、もう少しわかりやすい言葉を見つけたような気がする。

  ”都会のルールは自然のルールの下位にある”

う~ん、ようやく「幻色の都」が「南八甲田」につながったなあ。「幻色の都」は「南八甲田」の一部作である。
2007.01.15[Mon] Post 11:27  コメント:10  TB:0  環境問題  Top▲

異様な苔むす沢2

苔むす沢1


苔むす沢2


苔むす沢3


苔むす沢4


CanonEOS5D/EF17-40mmF4L 1/50秒 F8 ISO200 RAW現像 Adobe Lightroom 2006.11.
2007.01.12[Fri] Post 15:11  コメント:0  TB:0  源流  Top▲

毒舌の言い訳

閑話休題(最近説教じみた話が多いみたいなので^^;)

 僕はいつもしゃべりすぎて、人を怒らせてしまう傾向があるのだが、その点は一年中反省の繰り返しじゃなかろうかと思う。でも勘違いしないでほしいが、反省しているのは物言いのへたさかげんについてである。もっとうまい言い回しができないものかと自分でも思う。ストレートに言い過ぎる。なぜそうなのかと言うと自分はストレートに言われても割と平気だからなのだと思う。だから人にもそういう言い方をしてしまう。直そうとしているのだがなかなか直らない。直るのだろうか?一生直らないんじゃないかと最近不安になる(笑)。
 おだてばかりを聞いて、批判を受け入れなくなった組織や個人というものは必ず自浄能力を失って腐っていくものだと思うわけで、僕は自分を批判してくれる人を、励ましてくれる人たちと同じぐらいに大事にしなければいけないと思う。僕はそう思っているわけだから、だから僕の批判的な物言いというのは、建設的な批判なのだととっていただければありがたい。なんて自分勝手な言い草なのだとも思われるだろうが、そこんところも許していただきたい。
 で、これからどうするかって?どうにも変わらなねーんじゃないの?性分だもん(と居直っている。苦笑)。タテマエとかヨイショ?無理だねオレは。タイプじゃないよ。たまにヨイショしてみたりするのだが、背中がかゆくなる(笑)。
2007.01.12[Fri] Post 01:39  コメント:0  TB:0  日誌  Top▲

苔むす源流

苔むす沢


 温泉がそのまま流れてくるのもすごいが、この苔がいい。この緑色と黒の輝きはどうすればできるのだろう?温泉の流れも透明感が高い。

苔むす沢2

2007.01.11[Thu] Post 17:49  コメント:4  TB:0  源流  Top▲

北八甲田の温泉の湧く源流へ

温泉沢


 南八甲田を後にして僕は北八甲田へ足をのばした。
 山頂の積雪の具合を確かめたかったからだ。
 何気なく入った沢。そこで僕は、異様に水蒸気の立ち上る沢に出会った。
 異様な苔、茶色く焦げたような土肌、水には白濁物が混じっている。
 この白いものは硫黄ではないか?あ、これは温泉なのか?
 そういえば足元が生温かい。手で触ってみた。温い!まぎれもない温泉だった。
 たまに、ふと足をのばした北八甲田でいきなりこんな沢に出会えるなんて!
 山の頂き付近は、うっすらと白い霜で覆われていた。

温泉沢2

2007.01.10[Wed] Post 15:33  コメント:0  TB:1  源流  Top▲

雪もちゃんと降らないとたいへんなことになる

070109.jpg

CanonEOS5D/EF70-200mmF4L 1/4秒 F11 ISO100 RAW現像 Adobe Lightroom 2006.11.4

ダケカンバが黄金色に輝いている。この眺めも典型的な南八甲田ですね。ブナ帯の上に広がるダケカンバとアオモリトドマツの混交林のなだらかな斜面。
 冬になるとこのダケカンバはほぼ全部雪に埋まってしまって、アオモリトドマツだけがモンスターとなってポツリポツリと残る銀世界に変わるのだけれど、今年はかつてない暖冬でまだそこまでいってないみたいです。先週寒波がきて北八甲田の山頂でようやく2mだそうで、それじゃあまだダケカンバを覆いつくせませんね。雪が八甲田の自然を守ってると知ってますか?アオモリトドマツやダケカンバは豪雪に覆われることによって厳しい冬を乗り越えているそうです。ここの上空のシベリアからの北西の風というのはマイナス40度から60度にもなる。雪もちゃんと降らないとたいへんなことになるんですね。
2007.01.09[Tue] Post 13:28  コメント:0  TB:0  環境問題  Top▲

源流の小さな楽園

s沢


 この風景になぜ惹かれるんでしょうね?草木はみな枯れ朽ちる晩秋の11月の八甲田、いつもならもう雪に埋まろうかという季節なのに、シダも笹も苔すらも陽に向かって背伸びするくらいに伸び上がっているようです。この生命力の力強さは、透き通るように清冽な水の力でしょうか?厳しい冬を知っているからこその植物たちの最後の背伸びですか?
 正面左手に流れ落ちる岩清水をすくって飲んでみました。のどがきりっとしまるような冷たさでしたね。旨かった。深呼吸して吸い込む空気の旨さも格別で鼻や喉の粘膜から全身の細胞に染み渡るようでした。僕にはこの平凡に見える源流の小さな沢はまぎれもない楽園に思えました。

スレッド:癒される写真 / ジャンル:写真

2007.01.07[Sun] Post 23:41  コメント:0  TB:0  源流  Top▲

ナメの渓谷

ナメ滝


ナメ滝2


見ての通り、一枚岩のナメ床である。岩の上を清水が流れている。こういう沢を遡行するのは実に愉しい。川の真ん中を悠々と歩いてゆく。夏ならもっと気持ちいいだろうな。


ナメ滝3

CanonEOS5D/EF17-40mmF4L 1/50秒 F8 ISO200 RAW現像 Adobe Lightroom 2006.11.3
2007.01.05[Fri] Post 15:50  コメント:0  TB:0  源流  Top▲

なぜ地名表記しないのか?_年のはじめに

s沢
 CanonEOS5D/EF17-40mmF4L 1/80秒 F7.1 RAW現像 Adobe Lightroom 2006.11.3

 地名表記した方が人を呼び寄せやすいし、文献としての価値が出るということもわかっている。それなのになぜ表記しないのか?

 地球上のあらゆる地域で森が破壊され砂漠化が進行しているのはもはや隠しようのない事実です。今の中国を見るともっともわかりやすい。森林が破壊されているどころじゃない。農村も砂漠化し始めている。地下水も川すらも枯れ始めている。地球上の人間によってなされる二酸化炭素の排出は、もうすでに自然が吸収する量をはるかに上回っている。
 この事実をほんとに危機感を持って受け止めている人がどれだけいるのか?残念だけれど、多くの人は、多少はそう感じていたとしてもまだなんとかなるだろうと思っているわけです。アメリカなどはこの問題すら市場原理にまかせればいいと思っているわけです。それよりも経済の方が大事だと言っているわけです。残念だけど多くの日本人もそうです。
 南八甲田は、ブナの原生林が広大に残されている世界でも希有な地域だと僕は言ってきたけれど、それでもあえて言うと、そんなものはすぐに破壊されてしまうほどの勢いで地球全体の環境破壊は進んでいるのです。
 
 ネットの波及力を考えれば、美しい渓谷や見事な岩魚が生息する森や川を僕は実名で記載する気にはなれない。白神が世界遺産に指定されてから観光バスなどに乗り込んでドカドカと押し寄せてくる「自然愛好家」達がいっぱいいることを僕は知っている。岩魚がいっぱい釣れると情報を得てグループで県外からドカドカと秋田の川までおしよせてくる釣り人達がいることも知っている。ひどい人たちと言うつもりはありません。僕も10年前ならそれほど違わなかったかもしれない。ただやはり地球環境に対する問題意識が足りない。だから僕は機を見て慎重にその問題意識を掘り起こすための発言を続けていきたいと思っている。
 ただ「きれい」「すごい」というだけで南八甲田にきてほしくない。僕もそれだけで撮っているつもりはない。「きれい」であればいい、「おもしろければいい」という人がいるけれど僕はそう思わない。地球上の希有な財産ですらある南八甲田の自然とは、それは強い問題意識を持たなければすぐにでも荒らされてしまうと言うことと同列であるということを知ってほしい。そういう考えの人たちがどんどん増えることを願っている。
 自己矛盾に陥りそうです。美しい自然を紹介していいのだろうかと。
 現に、僕が去年の春に写真集を出した時に、「地図を載せてくれればもっと良かったのにね」と言ってくれた友人がいました。その人も環境問題にはやさしい考えを持った人なのです。でもそういう人ですら問題意識が足りないのです。メディアやネットの波及力と自然環境のもろさに対する意識が足りないのです。
 僕は何度か自問してみました。黙してしまった方がいいのかと。希有な原始の自然が残る南八甲田を紹介などしない方がいいのかなと。でも僕がブログで発言することの影響力などまるでとるに足らないものだけれど、それでも賛同してくれる人たちがいる。問題意識を掘り起こされたといってくれる人たちがいる。とるに足らないことを少しづつやっていこうと今はそういう気持ちになっています。南八甲田の美しい希有な自然を撮ろう。その美しい自然が希有なものであるという意識を共有できる人々を増やしていければいい。そういうやりかたをつづけようと。その方がより積極的な関わり方ではないかなと。
 そういうわけで、(せめて)川の実名などは隠して表記することがあります。(それでもずっと僕のブログを通読していただければそれなりに推測できるかもしれません。読図するという習慣をつけて、山の知識を深めるというスタンスがあればわかるでしょう。安易にネットから情報を得るだけという考えではなく、山への愛情を持って接してくれるようになればすばらしい。そうした方はぜひ南八甲田を訪問してください。えらそうな言い方になって申し訳ないですが、そうすればきっと山の神に愛されます。飾り言葉でも空言でもなんでもない。山の神にいかにしたら愛されるのか、僕自身いつも心に留めていることです。)
 「暗門の回廊」や「竜神の渓谷」などは僕が勝手に命名したものです。ご理解いただければ幸いです。


2007.01.03[Wed] Post 15:26  コメント:2  TB:0  八甲田山歩きの旅  Top▲

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