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キヤノンカレンダー
幸運にも選考されまして、今年一年かけて撮影にあたることになりました。
キヤノンのプレスリリース http://canon.jp/ それでなくても今年は八甲田の撮影に全力を上げようと思っていましたので、これはこの上ないサポートになります。支えてくれた多くの皆さんとそして南八甲田の美しい自然に深く感謝します。 明日から入山の予定です。春はどこまで来ているだろうか? シネグレと悠々 その3![]() ![]() ![]() ![]() この木はちょっとすごいですよ。 針葉樹林のアオモリトドマツ帯の中にあって、ぽつりと落葉樹が孤立して混じってます。 隣の木をまるで攻撃しているようです。シネグレですね。 さて、 シネグレと悠々 その3 ですが、.. 少し視点を変えてみましょう。 自然を観察していると、 物事とは常に相互補完的であり、相対立的に見え、多面的に観察しないとよくわからないものだということを知らされる。 「虫もシネグレだな」としゃべった母親の言葉に僕は驚いたと前に書いたけれど、 「虫もシネグレ」という言い方は、人もその他の生き物もまるで同列である。 自分の息子が山でヤブ蚊に刺されて手を腫らしているのに、彼女は、息子の腫れた手を心配するでもなく、 自然の生き物達も生きてゆくのに一生懸命で大変だなあと感想を述べたのだ。 この言葉は、しばらく僕を考えさせた。 1,人間も虫けら(=自然)もあまり分け隔てなく語っていること。 2,シネグレという「生き方のスタイル」が虫にもあるのか?ということ。 そういうことをスラっと言ってしまう。 これは、僕の長年の疑問を射抜くようでなおさらハッとした。 それはどういうことか? ヘーゲルやマルクス、それ以降の実存主義や構造主義から現代にいたるまで、一貫してある考え方への疑問なのですが、簡単に言うとこういうことです。 「動物は単に直接的な肉体的欲求に支配されている」(「経済学・哲学草稿」マルクス)だけの存在で、人間はそうであってはならない(ヘーゲル)、というようなことを言っているわけです。極論すると、動物は、生きるためにのみ飲み食い動いているだけだ。人間はそこから「跳躍」しなければならないと言っているわけです。 この言葉だけとれば、語弊が生じます。時代的背景、封建制批判やキリスト教批判という面もからめて読まないといけないのですが、それでも僕は疑問に思った。自然を観察していくにつれよけいにそう思うようになったのです。 「自己意識」というものを人間だけの独自の、人間にとってもっとも大事なものととらえていること、そのことに対する疑問ですね。だって、自然の生き物たちだって「意識」があるんじゃないかと思えるシーンを何度も見ているからです。食うだけ?生きるだけ?種を保存するだけ?そうじゃないシーンもあるよ、と。 そういう具体的な側面と、さらにそういう「人間中心主義」という視線の偏向自体にも疑問を持っていたのです。 母親の言葉は、そういう意味で、人間の目線からしか世界を視ることが出来ない近代思想の偏向を、一言で射抜いている。学問書など読むはずもない彼女の視線を形作っているのは自然の教えという他ないと思う。この視線とは、人間と自然が共生し持続可能な環境を保持していく上で僕たちが獲得すべき見方と通底するものであって、それを、大正生まれの「無学」の母親が保持していたことに驚いた。 ここにもう、ぼくの不遜があるわけですね。自分の思考の客観性みたいなものに対する傲慢さ!この二重のパラドックスにハッとしたわけです。ヨーロッパ哲学の不遜さに疑問を持っていた自分が、同じレベルで「無学」の者に対して不遜さを持っていた! ここに重要な問題があるんですね。 科学的客観性と考えられるものというのは、文化とか文明とか違えばまったく別の意味を持つということですね。 自然と深く共存して生活してきた人たち(=母親のような)にとっては、虫もけものも人も同列に生きているということは、当然のことだったわけです、きっと。僕らの戦後の学校教育の中身の方が(ヨーロッパ思想に)偏向していたというわけです。 自然と人間の捉え方について書いてきましたが、 同時に僕はもう一つのことを言ってます。つまり、自然の捉え方だけじゃなくて、いろんなものごとを捉える方法そのものです。 シネグレと悠々、というのは、 見方、歩き方、生き方のキーワードでもあるし、 ひとつのサンプルでもあるわけです。 サンプルというのは、 相対する相互補完的な見方でものごとを見ていかないとまちがえてしまうよ、という考え方を提示する上でのひとつのサンプル的言葉だという意味です。 だからここに、厳しさと寛容、と入れてもいいのです。 簡単に言うとこういうことです(というか簡単なことなんですが)。 ”南八甲田というのは厳しい山だな” ”でもそれだけじゃ一つの側面しか見ていない。寛容の山でもあるんだよ”というようなことです。 シネグレであることと相対するように、自然の生き物たちは悠々としていること。このことを見ないと自然の捉え方は一面的であるよと言う時、僕は、内容を言っていると同時に捉え方、見方についても提示しているつもりです。 ずらずら長く書いてきましたが、言葉にしてみないと、(山で)考えたり想ったりしていることの整理がつかないのでこういうかたちをとりました。あまりシネグレにならずに少しは悠々と読んでご意見くださいませ(笑) ただ、明日からまた八甲田に向かう予定ですので(今回は長くなりそうです)、コメントへの返信は遅くなるかもしれません。ご承知ください。 シネグレと悠々 その2![]() この前の続きです。 人間は、自然的な状態(狩猟する、種を保存するだけ)から跳躍して(労働したりして)はじめて人間足りうるんだというヨーロッパ近代の考え方というのは、少し疑問だという話でした。 それは、要するに(ヨーロッパの近代思想=つまり僕らが受けた教育は)あらかじめ、人間は自然の上位にあるということを大前提としているわけです。 ここが疑問なんですね。でも僕の疑問も最初は、中途半端であいまいなものだったのです。 最初の疑問のころは、こう考えていたのです。 「自然は人間と同じように価値がある」と。これって、中途半端というか全然飛躍してないですよ。いままでと同じですよ。 だから、ほんとはこうだろうと思います。 「人間は自然のふところでしか生きられない」 ほらね。上位は自然なんです。だから、自然の中には、人間が作り出した神様なんかいないんです。(「山の神様」がいるだけです) だから、ヨーロッパ近代思想というのは、自然の捉え方を間違えたかなと。というか、人間自己チューみたいな狭い見方になっているのではないかなと思えるわけです。 もっと言うとですね、ヨーロッパの白人社会が世界の中心であってという自己チューな考え方だったんですよ。野蛮人とか未開人とか平気で言ってますからね。 マルクスですら、原始共産制という言い方をしてますからね。野蛮人とか未開人の社会というのは、文明の歴史の一時代であって、歴史が発展すればいずれ封建制や資本主義制を経て、やがて次の時代として社会主義がやってくるという見方をしているわけです。ひとつの狭い世界の歴史しか見ていないような気がする。多様な社会、多様な文明という視点を欠いていたのではないか? もちろんマルクスだけじゃない。グローバル化という見方も同じことです。だから「もっとも先進的な民主主義」を世界中に押し付けようとしている。進歩主義というか生産力至上主義というか。そういうものに対する疑問というのが大きくなってきた。 この話、半端にしゃべると誤解も招きやすいのでまた続きはゆっくりと(笑)。 シネグレと悠々![]() 岩魚とかテンとか野生の生き物たちを観察していると、 死にものぐるいでエサをとってるだけではないんですね。 遊んだりしてる。走ったり。泳いだりを楽しんだりしてる時が明らかにある。 動物の世界は「食うか食われるかの熾烈な生存競争」という見方は、 人間の勝手な偏見というか、間違った観察じゃないかと思えるわけです。 どういうことかと言うと、 エサをとるとか種を保存するということだけに精一杯だということではなくて、 動物たちも「人生を楽しんでる」(人じゃないから、動物のLifeと言えばいいのか?)そういう時もあるのではないかということですね。状況的には、シネグレであったり悠々としていたりするわけです。 そういうふうに考えるとですね、根本的に近代思想(特にヨーロッパ思想)みたいなものは、前提がまちがっているんじゃないかと思ったりします。 つまり、近代思想の前提とは、 人間は、自然的な状態(狩猟する、種を保存するだけ)から跳躍して(労働したりして)はじめて人間足りうるんだという考え方なわけでしょう。(=ヘーゲル、マルクス) (この話、続く) 霧氷とカメラの防寒仕様嵐が去って猛烈な吹雪に見舞われて![]() 入山して4日目に吹雪に見舞われた。 猛烈な風でどうにもならない。カメラのバッテリーも残り少なくなってきたし、撤退しようと決めた。 吹雪だけ撮って下山しようと思ったのだけれど、吹雪の様子がどうにも写真に写らない。吹き上がる雪の烈風の様子が写らないのだ。結局200カットぐらい撮っただろうか?まともなのは5.6枚しかない。しかもレンズフードが強風でずれていてそれが画像に写り込んでいるのまで数多くあった。それでも5.6枚もあれば十分か。 この後、酸ヵ湯温泉まで下山した。ラジオを聞いてみると、日本全国で大嵐だったようで絶妙の決断だったと思う。温泉に入って、車に戻って、日本酒を飲んで、携帯に電源入れてみると(酸ヵ湯は携帯が通じる)、すぐプルプル〜と鳴った。東京の友人のTからだ。 「大丈夫か?オマエ」 「あ?いま温泉入ってぬぐまってるよ」(...へっへ) 迫り来る群像山上の広大な雪原![]() その山を登りきると、驚くほどの広大な平原が広がっていた。雪はわずかに降り続いていたけれど、ほとんど無風でまったく音がない。色もない。モノトーンと無音の不思議な空間。スノーシューを履いても膝下までラッセルするような状況で、雪を踏みしめる時のわずかな音だけが聞こえてこの空間がおそろしく静かだということに気がつく。 夏ならまったく風景がちがうのだろう。ハイマツやらの低木がすべて雪に埋まっているわけだからまったく平原には見えないのかもしれない。厳冬期にここに立つのは至難の技だろう。だからこの時期だけの、幸運にめぐまれてはじめて相対した風景かな。 アオモリトドマツもシネグレだな。半分以上が風雪にねじまげられながら耐えている。 なぜNatureと向き合う?![]() 「なぜ岩木は、突然、山の写真に向かったのかわからない」と僕の古くからの友人に言われたことがある。「なぜ?オレにはその理由がわからん」という団塊世代特有の断定的問いかけ。 ここには、何かしらどんな物事であろうと合理的説明ができるという不遜な考えがある。それに対する僕の答えは逆に、この質問の仕方そのものの中ににあると言い返すことができるかもしれない。 合理的説明、科学的認識の到達しえない深さが自然の中にはある。というか、そういう不可知の領域が数多くあるということを教えてくれるのだ、自然というものが。僕が合理的思考を否定しているわけでは決してない。むしろまったく逆で僕は一貫して唯物論者である。そういう観察態度をもって接していても本質に迫れない多くの事柄が自然界には存在する。だからこそいっそう惹かれていったのだと思う。そういうものに触れる度に僕は僕の考え方の未熟さに気がつく。僕は山中で一人で自然をみつめてそれをとって返して人間や社会を見直したりする。 こういう質問をする人たちは、「自然よりも人間や社会をとらえることの方が深淵だし高尚である」という不遜がある。「人間中心主義(という言い方をするといい意味の方に誤解しかねないので、人間自己チューと言った方がいいかもしれない)」というヨーロッパ近代思想の限界もここにあらわれていると言ったら彼はきっとムッとするだろう(笑)。でも彼らは戦後民主主義の良心的な部分でもある。非合理なものに突き動かされ侵略戦争へと導いた戦前の思想へのアンチテーゼの体現者である。だけど僕が向いているのはそういう(昔に帰れというような)おろかな復古主義ではない。懐古主義でもない。そういう安易な懐古主義に対する警戒心はぼくも常にある。 こういう話し方だけでは僕の友人はけっして納得しないだろう。僕もそれだけで説明するつもりはない。いずれ少しづつ話すことができたらしてみよう。理論的整合性のある話など僕にはまだできない。まず山に向かうスタンスだけの話をしよう。 南八甲田の奥深く、森を歩き川を渡って写真を撮っていると、時折、山の神の声が聞こえてくる。その声はまぎれもなく錯覚だ。だけどその、源流を単独で遡行している時にしか聞こえないその声と対話しながら僕は、自然と人間の生き方について考えなおしてみようと思っているのだ、と。 野生のテンを撮った八甲田は変わらない、青森は雪がない。![]() ![]() 山麓には、雪が少なくて峠あたりでは例年なみにたっぷりあるというのが今年の特徴のようだ。 市内は、まったくなかった。 どうも温暖化というのは、新次元に入ったような気がする。 20年くらい前から顕著に温暖化が進んでいて、どんどん雪も少なくなり、雪融けや新緑も漸進的に時期が早まっていた。 ところがここ3.4年は、 山では、かえって融雪の時期がおそくなった。3.4月にドカ雪が降るようになったのだ。それが5月まで融けない。 山麓や市内はちがう。ほんとに降雪量が少なくなった。 つまり、山と町では気候が極端に離れてきたようだ。 もちろん、他の土地のことはわからない。ここ八甲田では、あいかわらず定量の雪が降る。ただし時期はずれの雪が多くなった。ここ3.4年の傾向はそういうことだと思う。今後どうなるのかわからないけれど、やはり気候はおかしくなっているね。 一瞬の、抜けるような空![]() ![]() この行程で、大学の登山部らしきグループと出会った。僕を追い越して先に進んで行った。一時間後ぐらいに今度は下山するそのグループと出会った。 オレ、 「どうしたの?もう帰るの?」 リーダーらしき男、 「いや、きょうは新入生を連れているので、練習です。雲行きも怪しくなったし、引き返します。」 だって。 「あ、そう。おつかれさま」 たしかにその後、どんどん降りはじめてきて怪しくなったが気にしないで僕は進んだ。それからわずか一時間後くらいだ。抜けるように晴れ間が広がった。 上空の風が雲をあっというまに吹き飛ばし青空が見えた。 雲の切れ間から地上に部分的にだけ断片的なライティングがかかる印象的な景色が広がった。(まだセレクション前なのでここで見せられないのが残念ですが) それも30分ほどで断ち消え、また吹雪模様に変わった。やっぱり山の天気は予測不能だなあ。 北八甲田に野営![]() 撮影カット数が、1600を越えているので、現像・編集がままならない。Lightroomの製品版も使い始めたばかりで、少してこずってます。ベータ版からかなり変更点がありますね。今回は、僕だけでセレクションするわけにはいかないので、従来より時間がかかってます。 雪上の野営は、快適でしたよ。3日目までは。装備も冬期用のを準備しましたから。3日目は、嵐の日。雪は平気なんだけど、すごい強風で、さすがに退避しました。これが正解。この日は、全国的に嵐だったようで、北八甲田は猛吹雪でした。僕は今回、いつもの南ではなく北八甲田に入山しました。北には登山道もあるし避難小屋もありますからね。人も南よりは入っているし、何%かの安全策を見込んで北に入りました。 ![]() ![]() 冬は、岩魚も山菜もないのでこんなものを食う。あとは、アルファ米とかラーメンとか。外側パリパリのフランスパンは持ちがいいし軽いので最適。 いつもの馴れた川のキャンプとちがって、やはり馴れない地での野営は怖い。熊がいないだけいいかもね(笑) 怖くて贅沢な孤独をホットウイスキーをあおりながらやり過ごす。不思議と空っぽな頭の中。ウイスキーのきついのどごしとかだけを鮮明に感じている。 黄砂が八甲田にも!八甲田撮影キャンプ無事終了![]() 大雪の八甲田から戻りました。 今回のキャンプはセイフティ第一に、そのギリギリのところを綱渡りしたという感じかな? 毎日降雪が続く中を単独行なのでセイフティとは言えないのかもしれないけれど、それでも最大限安全策をとりました。まあ、おかげでヒヤッとすることはほとんどなかったです。ただしこの時期に毎日吹雪まじりの降雪には少し驚きました。 はっきり言って、こんな好条件はめったにないくらい恵まれました。 毎日が新雪だし、厳冬期ではなかなか入れないところまで行けたわけですから。何よりも寒さはたいしたことないのが一番でしたね。 僕が入山した3月30日の前までは降雪が全然なかったそうですよ。それが僕が入ったその日からドカドカ降ってきました。うれしくて泣けてきたなあ。後半は、小春日和でポカポカ。一週間でジェットコースターのような天候の変動でした。 写真は、セレクションしながら少しづつアップしていきます。カレンダーの関係もありますから以前のようにベストショットをどんどん上げるわけにはいきませんけど(残念)。 山の神と友人たちに感謝! (しばし、木陰で休息。雪を溶かしてコーヒーをいれて一服。コーヒーは、映画監督のヤンさんとプロデューサーの稲葉さんから差し入れしてもらったエチオピアコーヒー「ヤルガッチャフェ」というもの。野生の花の香りがする極上のコーヒーだった) |