完全でないものをゆるせ
本格的に山の写真に取り組むようになってから僕はこういう考えを持つようになっていた。
ゆるす寛容性が山にはあるのだと。もっと端的に言うと、自然のなかには完全なものとか完璧に純なものなどひとつもないのだと。
テアトル新宿で今上映されている若松さんの映画を観て、そういうことを思い至ったのだ。
花ひとつとっても被写体として完璧なものなどひとつもない。

ミズバショーが群生しているが何百万の花をくまなく探しても完璧な花というものはないのだ。どこか枯れたり色がにじんでいたり形にゆがみがあったりしているものだ。

そういうことは(=純ではないこと、完全ではないこと)、マイナスなのではなくて、その多様性こそはむしろ豊かさなのだと気づかされたのである。
人間社会にもこの多様性が大事なのだと思う。
悪いものは全部排除しようというのは、やっぱりあぶない考えなんだ。ナチスやスターリンみたいになってしまう。原理主義とおなじでそういうのはみんなあぶないんだよね。時々ぐーたらだったり、不純なものが混じってたりした方がいい、というのは前々から感じていたことだが、南八甲田の自然の寛容さというのはそれに確信を持たせてくれたような気がする。なぜまじめで純粋なのがいけないのかと言うと、自分の考えていることは正しくて、やってることは純粋だと思いつめてしまうからだ。それがなぜあまりよくないのかと言うと、やっぱり人の意見を聞かなくなるからだね。適当にいいかげんな方が自分の考えや行動を修正しやすいのかもしれないね。
そういうことをこの映画を観て思った。若松さんは最後に加藤少年に「勇気がなかったんだよ」と叫ばせた。そのとおりさ。でも森と永田はちがうでしょ。もっと深いところのものは何?マルクス主義も含めた近代思想の問題じゃないかな。自然の教えを忘れてしまったところの。人間は純なもの、完全なものを作り出せるというのはすでに傲慢でしょ?自然界には純なものは何ひとつないんだから。
でもこの映画は傑作ですね。若松さんは最高の映画を作った。最高のドキュメンタリーを撮った。それが彼の仕事だからそれでいいと思う。解明するのは彼の仕事ではないよね。