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写真家の山暮らし

Photos of Japan north country and the Photographer’s Journal 南八甲田の麓、奥入瀬川のほとりの山のスタジオからNature Photoを添えて日誌を綴っています。2012.3.11に恵比寿のスタジオをこちらへ移転しました。

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シンクロ? かしら!

七戸を代表する盛田〇先生が岩木さんと似たような話しをしていましたよ。 中央に手打ちをさせるほど騎馬軍がメチャクチャ強かったんだーー・・・ 七戸の本当の歴史を知らなすぎるとも・・・ 七戸に残っている絵馬は独特の特長があり、あれは‘アラビア馬’の特長なんだーーとも、古代にアラビア馬のような駿馬が闊歩していたなんて、超ロマンテック
な話しでしたよ。 ご友人の先祖も関わっていそうですね!  
2010.12.17[Fri]  投稿者:北のFarmer  編集  Top▲

>北のFarmerさん

盛田稔さんの「七戸町史」の古代史部分は、読みました。読み応え十分でした。南部の馬が、ペルシャ(アラブ)馬の特徴を持っているという盛田さんの説も知ってましたよ。このあいだもほんとは、講演会にいきたかったんですけど都合がつかなくて。こんど会う機会があったらよろしくお伝えください。
2010.12.20[Mon]  投稿者:wak  編集  Top▲

No Subject

どうもこちらでは初めまして。
同じ場所、同じ時間を共有しながら、やはりプロのなせる業は全く違いますね。
桟橋でパシャパシャ撮ってた御仁が、まさか岩木さんだったとは!そ、そうですよね?
随分激しく撮ってる人がいるなぁとは思ってたんですが。

2010.12.20[Mon]  投稿者:ポン太  編集  Top▲

>ポン太さん

ポン太さん、コメントどうもありがとうございます。

桟橋でお会いしましたか?気がつきませんでした。
11月27日の夕方でしたら、僕だったのでしょう。
今度は声をかけてくださいね。

激しく撮ってましたか?^^;
この時間帯は、数秒ごとにどんどん色が変わっていきますからね。
2010.12.21[Tue]  投稿者:wak  編集  Top▲

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南部(糠部)の風景

僕は友人の好意に甘えて、1年ほど前から小川原湖近くの東北町(旧上北町)にロッジ風の一軒家を借りて、青森滞在の時の拠点として使わしてもらってる。おかげで、この近辺を撮り歩くようになって、東北町というものに対する認識を新たにした。

 南部という風景を撮りたいとずっと暖めてきたけれど、東北町というのは、実は南部という地方の中心なのではないかという再認識だ。南部と言えば、藩制以降のことだから、ほんとはそれ以前に呼ばれていた糠部(ぬかのぶ)と言った方がいいのかもしれない。事実、南部と呼ばれて以降は、三戸だったり八戸の方が中心だったであろう。だけど古代史から通して見れば、歴史書をひも解くほどに、東北町や七戸あたりの方がどうも中心だったのではないかと思えてきたのである。
 
 千年も前から京の公卿や歌人たちに詠われてきた「日本中央の碑」伝説の地_千曳神社が東北町にあるのも根拠がある。アテルイとモレ率いる蝦夷軍が坂の上田村麻呂の朝廷軍に敗れたのは知られているけれど、その10年後、英雄”伊加古”率いる蝦夷軍が都母(坪か?)に陣を張って頑強な抵抗を繰り広げたというのはほとんど知られていない。征夷大将軍・文室綿麻呂が攻めあぐみ、手打ちをするしかなくて、その手打ちの紋章として「つぼの碑(日本中央の碑)」が残されたという説もある。朝廷に手打ちなどあってはならないから、歴史書にあまり残されていないのだなと推測していいだろう。その地が坪=都母、つまり東北町のあたりのことだ。(伊加古軍は都母で騎馬軍訓練を盛んに繰り返したと歴史書にあるけれど、その訓練場が三本木原台地だとしたらおもしろいなあ。地理的にも、伊加古軍は二戸から撤退して東北町へいたる途中で練兵したと記述があるから三本木はぴったりだ。千人もの騎馬軍を練兵できるところは限られている。三本木 をならして練兵場としたっておかしくない。だから三本木はそれ以降だだっぴろい荒野になった?だってあんな広い台地が木が三本しか生えていない荒野だったなんておかしくない?予断の余談だけど^^;、、僕は歴史学や考古学を語ってるわけじゃないから、推測でロマンを語るぐらいの権利はあるさ^^;)

 下北も含めた糠部という、本州最北の、弥生文化ー律令制度に抵抗するような地域として、風土と歴史を残し、その意味でかたくなに開発を拒み自然も残してきたのではないかという推測もありだろう。

 南八甲田と下北半島がその最奥の地であるとするならば、小川原湖はその中心に位置する風景といってもいい。小川原湖
2010.11.27 小川原湖と八甲田連峰
2010.12.17[Fri] Post 16:23  コメント:4  TB:0  小川原湖  Top▲

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七戸を代表する盛田〇先生が岩木さんと似たような話しをしていましたよ。 中央に手打ちをさせるほど騎馬軍がメチャクチャ強かったんだーー・・・ 七戸の本当の歴史を知らなすぎるとも・・・ 七戸に残っている絵馬は独特の特長があり、あれは‘アラビア馬’の特長なんだーーとも、古代にアラビア馬のような駿馬が闊歩していたなんて、超ロマンテック
な話しでしたよ。 ご友人の先祖も関わっていそうですね!  
2010.12.17[Fri]  投稿者:北のFarmer  編集  Top▲

>北のFarmerさん

盛田稔さんの「七戸町史」の古代史部分は、読みました。読み応え十分でした。南部の馬が、ペルシャ(アラブ)馬の特徴を持っているという盛田さんの説も知ってましたよ。このあいだもほんとは、講演会にいきたかったんですけど都合がつかなくて。こんど会う機会があったらよろしくお伝えください。
2010.12.20[Mon]  投稿者:wak  編集  Top▲

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どうもこちらでは初めまして。
同じ場所、同じ時間を共有しながら、やはりプロのなせる業は全く違いますね。
桟橋でパシャパシャ撮ってた御仁が、まさか岩木さんだったとは!そ、そうですよね?
随分激しく撮ってる人がいるなぁとは思ってたんですが。

2010.12.20[Mon]  投稿者:ポン太  編集  Top▲

>ポン太さん

ポン太さん、コメントどうもありがとうございます。

桟橋でお会いしましたか?気がつきませんでした。
11月27日の夕方でしたら、僕だったのでしょう。
今度は声をかけてくださいね。

激しく撮ってましたか?^^;
この時間帯は、数秒ごとにどんどん色が変わっていきますからね。
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