写真家の山暮らし

Photos of Japan north country and the Photographer’s Journal 南八甲田の麓、奥入瀬川のほとりの山のスタジオからNature Photoを添えて日誌を綴っています。2012.3.11に恵比寿のスタジオをこちらへ移転しました。

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山岳写真ではないよ

 口の悪い僕の友人達は、
「オマエの写真は岩魚が一番いいなあ」と言う。
ふん、と聞き流していたのだが、
案外、核心にふれているのかもしれないと思うようになった。

僕自身、自分の写真は山岳写真じゃないよ、という言い方をしたりする。

山岳写真の権威あるすぐれた写真といえば、険しい岩峰、厳しい山頂といったものがテーマになるわけで、僕の写真はそういうものがメインなわけではないからだ。

険しい岩峰-そういうのは八甲田にはほとんどない。ピークまで緑に覆われている。
厳しい山頂-山頂の写真はほんのちょっとだけ。そこに至る森や渓谷がメインだ。それどころかそれどころか僕は山頂に至るのを目的としない。だから山岳写真ではない。それに、厳しさももちろん撮るけれどやさしさやなだらかさをこそ撮りたいと願っている。僕の主観的願望だけではない。八甲田はそういう山であるからだ。

南八甲田というのは、「死に立ち向かう」山ではなくて、「生命の躍動を謳っている」山、豊穣で寛容にあふれた山である。僕にはそう見える。
だから、
岩魚や山菜をとって食うことが、西洋アルピニズムとか白川義員氏の写真とかとはちがう、僕の山行と写真の核心なのでありそれがなければ片手落ちなのである。などと思う。(岩魚を食いたいからだろうという悪友の陰口が聴こえる^^)

 僕の友人の、コマーシャルフィルムの監督が、
「遭難というのに、...ちょいと憧れる」と僕に言っていたけれど、これもかなり核心をついた言葉で、アルピニズムというのはそういうものをめざしていたと思う。特別厳しい自然に立ち向かって生と死の境界を彷徨うこと、そこから生還した時に人間のアイデンテッティを確認すること、とかだろうと思う。厳しいものに立ち向かう人間の姿というのは美しい。そういうものはあっていい。

 そういうものを全否定しているわけではない。ただ僕はいくつかの疑問を持つ。
疑問を持ち始めたきっかけは、植村直己さんだった。(僕はこの人とラインハルト・メスナーを文句なしに尊敬する。)
 植村さんが、ヒマラヤ等の山岳遠征に嫌気をさして、極地の単独行に向かったのはすごくわかる。登山家でもないし3000mしか登ったことがない僕が生意気だけれど、パーティーを組んだ大遠征隊でチョモランマを「征服」しても何か特別の意味があるのかとか思ってしまうわけだ。
 それでも植村さんですら、「悪無限的な挑戦」から逃れられない。もうこれで最後にすると言ってマッキンレーに単独で入山して「遭難」してしまった。遭難ではなくて、山から降りるのがいやでそのまま寝てしまったのか、最後だという意識からクライマーズ・ハイが切れてしまったのかとか勘ぐるのだけれど真実はだれにもわかるはずもない。

 そういったすべての西洋的なスタンスとはちがった、日本の、自然に対する接し方、思想というものをくみ上げる写真を撮れるようになればいいなあと思う。
 寛容さだけを撮るつもりもない。厳しい山岳も渓谷も同じ山である。「征服」や「アタック」という言葉は似合わない。最近無節操に使われてる「共存・共生」という言葉もなにか少しちがう。写真だけの領域で、あえて言葉をさがすなら、”一体になること”、だろうか?人間も自然の一部であると感ずることが必要であるとするなら、きっとそういうことである。そうすればきっと今まで見えなかったものが見えてくるのかもしれないと思う。

 「虫けら並みの夜」の悟り

 6月の南八甲田、一週間そこに倒れていても誰にも発見されないような源流の河原で、僕はたったひとりでツエルト一枚オープンに張って野営していた。8時にはシュラフカバーに潜り込んで横になる。その時こんなことをつぶやいた。

”ランタンは消して真っ暗にする。しばらくすると木の葉の合間から星が見えてくる。夜空と南八甲田の真ん中で自然と一体になる。なんてオレは小さいんだ。ブナの幼木にも満たない。虫けら並みじゃないか。”

と。
 大自然の中のちっぽけな自分を思い知らされる。虫けらのような、米粒のような人間の存在を実感する。ここでのたれ死んだとしてもただ土に還るだけである。大自然の営みは何も変わらない。何もなかったかのように過ぎてゆく。そんな人間の、悩みや不安や煩悩といったものはふーっと吹き飛ばされて風化するだけである。なんて小さなつまらないことに心を重くしていたのか、と。そうおもったとたんに体中(こころ中)のコリが頭のてっぺんからすーっと抜けていくような気がしたのだ。煩悩とは無縁の軽やかな気持ち。これは悟りの境地というものではないか。
...、ところが東京に帰ってしばらくすると、またより戻しをくらってしまう。まだまだありきたりの凡人なのです(苦笑)。

 さておいて、本題に戻ると、

 自然を「征服」しようとか「支配」しようとか、また同じ土俵でしかない「保護」しようとかいう意識ではなくて、
人間は同じ自然であること、自然のなかで生かされていることを理解し、自然と一体になるために山に入ること、そのことによって見えてくる自然のありのままの美しさを写真に撮ることこそ僕のめざしたいものなのです。初登頂といって旗をたてる人々といっしょにされて比較されるのは心外だと時々言いたくなるのです。生意気ですか?きっと生意気ですね。説得する写真が足りないものね。あ~あ、時間も金も装備も何もかも足りない。ほらね、また凡人の悩みにとらわれ始めている!



2006.10.20[Fri] Post 16:49  コメント:0  TB:0  山歩きの思想  Top▲

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