写真家の山暮らし

Photos of Japan north country and the Photographer’s Journal 南八甲田の麓、奥入瀬川のほとりの山のスタジオからNature Photoを添えて日誌を綴っています。2012.3.11に恵比寿のスタジオをこちらへ移転しました。

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合掌

この方、どんな人生を送ったかたなんでしょうね。

もし、山の中で偶然iwakiさんに出遭って、岩魚でもい一緒に食らいついて、キノコ汁でもすすって、薫り高いドリップコーヒーでも飲み干していたら・・・違うお写真がここにあったのでしょうね。
2007.01.16[Tue]  投稿者:せいか  編集  Top▲

>せいかさんへ

こんにちは。
ぼくもそういうことを考えましたね。
遺体は、においもせずきれいなままでしたから、ほんの1日2日しかたってないでしょう。
僕が一日早く入山したら、出会ってたかもしれませんね。
逆に、(道もないところですから)、沢へ降りる場所が50mちがったら、発見できなかったでしょう。そうすればもう春までは誰にも発見されないで、白骨になっていたかもしれない。そういう不思議な偶然性を感じますね。
  靴も衣服もザックも全部真新しいもので、頭髪も散髪してさっぱりしたものでした。合掌。
2007.01.18[Thu]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

50m!

きっと、この方は呼んだんですね・・・・iwakiさんを。
偶然ではないように思えます。

もし、またこの世に生まれ変わっているとしたら、
あのときはありがとうって、きっと、iwakiさんのまわりに、すごいサポーターがあらわれますよ。

今年は、良い年になりそうですね!
2007.01.18[Thu]  投稿者:せいか  編集  Top▲

No Subject

私の好きなケン・ウィルバーの引用です。
「年老いた猫は、差し迫る死を迎えて、恐怖の発作に押し流されるようなことはない。静かに森のなかに行き、木の下に丸くなり、死ぬだけである。終末期の病を抱えた駒鳥は、柳の枝に静かに、心地よくとまって、夕日を眺めている。もう光が見えなくなると、最後に眼を閉じて、静かに木から大地へと落ちる。」
こんな死に方に近づけるような生き方をしたいと思ってはいるのです。
久々に此処へ来ました。考えましたよ。
2007.01.18[Thu]  投稿者:えみこ。  編集  Top▲

No Subject

せいかさん、ありがっとです。

えみこさん、いらっしゃい。
ケン・ウィルバーですか?僕は読んでません。ブッシュの八百長で負けたゴアが読んでたというのは知ってたけど。そのうち読んでみますか。

読書もいいけど、たまには書を捨て山へいこう(寺山修司なら街へいく^^)ってね(笑)。
2007.01.19[Fri]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

書を捨て・・・

書を捨て、街でも海でも山でもいこう!! 久々にききました。
同感同感。

ワタシは、本読むバカが大嫌い!

本屋は好きだけどね。

特に読書好きな男ほど最悪なのが多い。(乏しい経験上!)

iwakiさん、読書好き? だったらごめんなさい。
iwakiさんは、ロク(誤用!)だと思います。v-238
2007.01.19[Fri]  投稿者:せいか  編集  Top▲

No Subject

コメントは基本的に自由です。匿名もネット上では自由です。
ただし、同じスレッド上で同一人物がネームを変えて投稿するのはルール違反と思われますので一部コメント削除しました。ご了承ください。
2007.01.21[Sun]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2007.01.21[Sun]  投稿者:-  編集  Top▲

No Subject

最近、仕事をやめました。
仕事をやめた時、iwakiさんのゆう都会の人であった私が、なぜか上司に対して猛烈にモヤモヤしたものを感じたんです。
自分でも何故だろうと思っていたところ、iwakiさんの今日のブログを読んでいて「そうか!!」と、気がつきました。
少ない休みをわざわざ遠くの自然の中に出掛けていた自分が居た事に納得。
私のなかで、違う!!と感じたことがココに書いてありました。
ありがとう。
2007.01.22[Mon]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

No Subject

人を恨むより自分の生き方を変えれば済むことって多いですよね。
2007.01.22[Mon]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

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死体と死と自然と向き合うことの意味

死
合掌。

この写真をのせれば波紋を呼ぶかもしれないと思い、しばらく悩んだのだけれど、でもその悩んだあいだに考えることも多かった。それは自然と社会について、あるいは環境問題についての根本的なことだと思われるのであえて掲載するけれど、けっしておもしろ半分でのせたわけではないことをわかってほしい。
 
 この死体を奥深い山中で発見した時、僕はやはり気持ち悪かった。不気味だと思った。
ところが、そのまままた山に入って4、5日野営している間になんでもなくなったし、気持ち悪さもなくなってきたのだ。
 なぜだろう?
 たぶん簡単なことだ。人間も自然の一部であるということをいやがおうにも受け入れざるを得ない状況にいたからなのだと思う。人と誰にも会わず人工物を一度も見ることもない奥深い山中で単独行を何日か続けていると、人もただの生き物である、人間ではない、人と人の「間」はない、ただの人なのだ、人という種のただの生物である、死ねば土に還るだけだ、ここではそうやって多くの生き物が死んだり生まれたりしている、人の死もその一つに過ぎないのではないか、そういうふうに思えてきた。あの死体は、自分の将来である。人が死ぬのは100%確実である。霊魂などない。死体になるだけである。死の意味など考えているのは大自然の中で人間だけである。だからどう考えてもおかしい。自然のひとつに過ぎない人間だけに特別に死の意味とか霊魂とかあるはずもない。他の生き物と同じように死に、同じように土に還っていく。その土が土壌になって草木や生き物たちを育てていくのだ。そういうものとして自然に循環していく。そういうあたりまえのことを僕は、死体発見後の何日かの野営の間に再確認したのだ。そうしたら、すーっと気持ち悪さが消えたのだ。そうだ、自然界の生き物たちは、ただシネグレに生きている。岩魚はまづめ時になるとシネグレにエサを追いかける。敵が近づくとさっと岩陰に潜り込む。それ以外の時は悠々と泳いでいる。ただ気持ち良さげに遊泳しているように見える。運悪かったら死ぬし、寿命がきたら死ぬ。それまでただ生きているだけだ。ただ生きていることが美しい。ヤブ蚊が僕の手に取りついて血を吸っているのもシネグレなのだ。(シネグレとは、南部弁で、一生懸命な姿勢のこと。死に物狂いからきているのかな?蚊もシネグレだと言ったのは僕の母親である。川の撮影で長時間露光をしていて、レリーズを2分ちかくじっと握っていた時のことだ。十匹近くの蚊が手にはりついたのだけれど、レリーズを放すわけにはいかないのでそのあいだにすっかり食われて腫れ上がってしまったということを話したら、僕の母親は「ヤブ蚊もシネグレだな」と言ったのだ。蚊もシネグレだと?おかしな考え方をするものだと僕はその時に思ったが。)

 この再確認したこと、つまり人間は自然のひとつにすぎないということを忘れてしまうと環境問題はわからないのだ。都会という人工物のかたまりの中で生活しているとこのあたりまえのことをわすれてしまう。人間が自然をコントロールできると勘違いさえしてしまう。だから自然を破壊しても平気になってしまうのだ。

 僕が最初に死体を不気味なものと思ったのは、やはりそういう都会的なものの考え方にとらわれていたのだ。自分も自然の一部であるということを見失いかけていたのだ。

 僕は、ここ9年近くの間に何百日もひとりで南八甲田で過ごして多くのことを学んだような気がする。それはまず何よりも、自然を相手にするには都会的な考えでは通用しないことがあまりにも多いので自然と身に付いてきたものだ。頭で考えてきたわけではない。身に付いてきたのだと思う。僕がいろいろものを言っていることは、たいした考えではない。肉体に染み付いたことを時々言葉にして整理しているに過ぎない。頭の中でこねくり回して考えたことではない。
 例えば、自然を相手にすれば、我慢し辛抱しなければならないことがいつでもある。嵐の中ではじっと待つしかない。無理をすれば死ぬ。夜まで「残業」すれば目的地まで着くわけではない。しょうがないということがいくつもある。人間の計画通りにいくことなんかあんまりない。地図を見て作成した計画通りに進んだことなどほとんどない。自然は不規則で何をしてくるかわからない。柔軟に対応しないと疲弊しきってしまう。「せっかく連休をとったからこういう計画であの山までいくぞ」というようなスタンスだと遭難したりする。また逆に、根性を出す時には出して夜になる前に野営地までたどりつくということをやらないと大変なことになる。自分の勝手にはいかないのだ。自然と対話して折り合いをつけてやっていくしかないのだ。グループ行動でも遭難が多いのは、自然と折り合いをつけるという第一義のことを忘れて、仲間との折り合い(人間関係)を優先させたりするからなのだと思う。ここでは人間関係が大事なのではない。自然との関係が大事なのである。自分の体力ではもうこの谷を下るのは無理だ、もうテン場を確保した方がいいと感じはじめている、そういう時、ほかの仲間はまだまだ行けると主張したとしよう。こういう時、体力ある方についていくという選択をしたとしたら、かなり危ない。山で、人間関係を重視するという選択をしたら命にかかわることになる。
 予測、計画、あるいは科学的思考ではとらえられないことすら大自然の中では時々現出する。森の中でテントを張って寝ていて、ずいぶんとテントの外からの気配を感じてぞわぞわしたことがある。朝起きて、まわりを歩いてみると、糞と足跡がいっぱいあってたしかに昨晩はけものがいたのだと思い知らされたことがある。気配とはいったいなんだろう?現代人が気配というものを感じる能力があるのだろうか?と疑ったりするが現実に眼にすると納得するしかない。他にも不思議な経験というものがいくつかあった。あまり並べ立てると「おまえおかしいんじゃないの?」と言われそうなのでやめとくが、でもそういうものは、ただ現状では科学的に説明しきれないだけの話であって、それはただ単に人間の科学がまだ自然そのものをとらえきれていないだけのことにすぎないのだと思う。そういうことをただむげに否定するのは、その方こそ非科学的態度である。というかそれは、人間が自然に対して優位に立っているという傲慢さの裏返しですらある。世の中、理解できないことはいっぱいあるものだと僕は思った。だから全部を理解しようとすることがおかしいのだ。傲慢なのだ。都会的なのだ。非自然的態度なのだ。すべてを知ることなどできない。これが絶対だということも自然界ではあまりない。だいたいこういうものだというスタンスがたぶんすごくいい考え方であると僕は思うようになった。

 今言ったことは、自然と向き合う時のはなし、これが都会にもどってくるとかなりちがう。ちがうスタンスが必要になってくるのだ。だから僕はしょっちゅう戸惑っているが(笑)。なぜ戸惑うのかって?それはやはり「都市の論理」と「自然の思想」は対立しているからですよ。

 僕は写真集「南八甲田の森をゆく」で、少しだけ老荘の思想をとりあげたけれど、老荘というのはあきらかに自然と向き合った思想なんですよね。その反対が孔子とかの儒教かな。漢の時代以降儒教が盛んになって中国の都市文明が完成してきたといっていい。それはまさしく、森林伐採がどんどん進んだという時期と一致する。ヨーロッパで言えば、古代ギリシャとかケルト文明のころは自然の思想優位であったけれど、都市文明が全ヨーロッパに広がるなかでそういう思想が排斥されてゆく。それとともに森林伐採は極限まですすんだわけです。この時期にほぼブナ林が消滅した。ギリシャやケルトの多神教がなくなって絶対神のキリスト教に統一されていった時期でもあるというのが興味深い。誰でもわかるでしょ?都市化というのは森林を伐採して広がってきた歴史です。そういう意味でいえば「都市の論理」が「自然の思想」と対立してきたのは当然とも言えるわけです。僕が拙写真集で少しばかり言いたかったのは、そういう都市の論理(=近代の論理)というのは、そろそろ賞味期限が切れてきたぞと言うことでした。成長主義、生産力至上主義というのも見なおさなくてはいけないし、IT化が進めばユビキタス社会が到来するというような話もあまりにも能天気で無反省じゃないかと思うわけです。進歩ばかり見ているとその対極で失っているものが見えなくなる。

 「環境問題なんかどうでもいい。そんことより金かせぐことで忙しくて構ってられないよ。」こう思っている人はいっぱいいる。こういう人は、だからまだ、自分の身体もまた自然そのものだという理解が足りないのである。
 ただ僕も全面的に「地球にやさしい」生活に取り組んだりとか、環境問題に取り組んだりしているわけではない。そんなにくそまじめでもないし純粋でもない。逆に純粋というのはあんまりよくないとさえ思う。自然界だって純粋じゃないですよ。純水というのを作れるのは人間だけです。清冽な水だっていろんなものが混じっているのだ。デジタル写真だってノイズレスで端から端まで鮮明に写りすぎてしまったら味も素っ気もない。人はそれがいいのだと時々勘違いする。それはダメだし危ないんだ。純血主義というのはたいがいろくなもんじゃない。原理主義というのはたいがい危ない。ナチスやスターリンもそうだしオーム真理教もそうだしアメリカの市場原理主義もろくなもんじゃない。日本も大和民族うんぬんとか言い始めたらろくなもんじゃなくなる。純粋があんまりよくないというのはそういうことで、要するに人の意見を聞かなくなるから危ないのだ。環境運動やってる連中にもこういう類いがいる。どこどこを一切立ち入り禁止にしようとかクジラを食べるのをやめようとか言っている人たちだ。なぜこうなるのかと言うと、自分達の考えが絶対正しいと思っているからそうなるでしょ。禁煙運動だってそうさ。タバコは身体にあまり良くないみたいだからなるべくやめた方がいいかな?というぐらいがいいのだ。ところがアメリカ人にかかると悪いものは全部排除しようということになる。イラクを攻めてるのと同じスタンスじゃないか。そもそもプロテスタントというのもキリスト教の原理主義みたいなものでしょ。だから絶対的なものの考え方をしたがる。こういうのは自然の教えに反するんだよね。

禁煙運動はなんだか危ないということを僕は何度かHPなりブログなりMIXIなりで書いてきたけれど、実はここに重要なことを含まれていると思うからだ。悪いものを全部排除してしまおうという考え方は、極論すれば自然の生態系を破壊してしまうに至るからだ。僕は以前の日記で、「なぜ熊を何千頭も殺すのか?」と書いた。それはたぶん、殺す側の論理として、熊は危険で有害だからだし、熊を殺したって人間の生活にたいして影響はないからだ。ここが問題なのだ。この論理は、今見えているだけのことなのだ。自然のシステムというのは微妙なバランスで成り立っている。それを人間の勝手な都合だけで排除したらバランスがくずれる。他の多くの生き物たちに影響を与えてしまうのだ。シカが増えすぎて森林破壊の影響が大きくなっているということも前の日記で書いたけれど、これもつきつめるとオオカミという「危険」で「有害」な動物を明治時代に絶滅してしまったという問題につきあたる。最大の天敵であるオオカミがいなくなったおかげでシカはどんどん増えた。それなのにシカは手厚く保護されている。そういうおかしなことを人間がやっているわけだ。他にもDDTをつかった「害虫」の絶滅的な駆除とかあるいは「ばい菌」を絶滅しようという試みとか、人間は人間側だけの都合で自然を支配しようとやってきたのである。そういう考え方は良くないと最近わかってきた。自然界には「害獣」も「害虫」も「ばい菌」もない。「生物多様性の法則」があってどんな生き物も欠かせない存在なのである。自然はそういうシステムとして機能している。この多様性が欠けていけば全体のシステムも崩壊しかねない、ということがわかってきた。それは多分人間の社会でも同じことなんです。優秀な人間だけを残す(ナチスの優生学)とか悪いものを排除するとか「ダメな」人を蹴落とすとかやってたらおかしな社会になると思いませんか?だから禁煙運動を考える場合に、タバコの健康に及ぼす害という面だけをとりあげて、全面的に全ての人に禁止にするという考え方はやはりちょっとおかしいと思いませんか?そういうのをやっていたら「持続可能な社会」には到底なりえないと僕は思う。持続可能な社会というのは、いろんな種、いろんな人、いろんな考え方を排除しないこと、むしろ数多くの多様性を包んだ自然こそ豊かであるという自然の教えに依って立たないと成立しないと思う。それは、人間だって自然の一部でしかないわけですから。だから、禁煙運動がなぜ良くないと思うかというと、それが純粋主義、原理主義だからなんだよね。純粋がなぜいけないか?そういうのって人の意見を聞かないでしょ。人をよせつけないでしょ。それがだめなんだ。例えば環境原理主義みたいのもあって、やっぱりそういうのはうそくさい。「環境破壊には絶対反対だ」というけど、それは無理でしょ。生きてるかぎりはどっかで環境破壊しているんだ。車に乗らない人ってあまりいないでしょ。自家用車には乗らなくても電車や飛行機には乗るだろうし、石油だってどこかで使ってる。現代社会で完全無公害の生活なんてありえない。だからって、何やったって無駄だというのはちがう。できるだけのことはやっていこうと。そういうスタンスの方がほんとらしいし、楽だし、長続きする。長続きしなきゃ意味ないんですよ。タバコは健康に良くないから絶対反対だとか言ったって、そういう人は絶対石油を使っていないと言えますか?言えないですよ。肺ガンの元はタバコよりも大気汚染の方が大きいと僕は思うよ。だから、ここでもこれぐらいにしておいた方がいい。「タバコは身体にあまり良くないみたいだからなるべくやめた方がいいかな?」と。

 タバコの問題ばかりとりあげるとまた僕は周囲との関係がギクシャクするだろう。この状況が僕は都会的だと言っているのだ。だから疲れる。僕は違和感があることに対して「それはおかしい」とストレートにものを言う性分だ。だからあちこちで関係がまずくなる。喧嘩を起こしたりする。話を丸くおさめるような方向に持っていけばいいのにそれがあまりできない。だから都会では戸惑う。もう少し大人になれとさえ言われる。そう言われると僕でも相当消耗する。
 だけど、そういう都会での社会に対する「スマート」な向き合い方を、自然に対してとったらどうなるのか?前に述べたグループ行動のように遭難するのが落ちである。違和感を丸め込むというスタンスをとっていたら自然を知ることはできないのである。老子に「大道すたれて仁義あり」という言葉がある。「仁義」とはいま日本で使われているのとは少し違う。人とのつきあい方とか人間関係のルールとかいった意味だ。それを老子は、「大道(=大事なこと)」に対して小さなことだと言っている。それはおかしな世の中だと警告しているのだ。

 話が少しとりとめもなくなってきたけれど、死体の話だった。不気味だなと思った気持ちがだんだん消えていったということの話だった。それが、人間も自然の一部であると理解することで消えていったということだった。
 じつは僕は去年の春に友人を亡くしている。どうにもその事実を受け入れがたくてもがいていた。気持ちの悪いものだったが、これもまた死体発見以降、冷静に受け止めるようになった気がする。死んだら死体になるだけなのだ。自然界の生き物はただシネグレに生きている。たまに悠々と生きている。ただ生きているだけで美しい。人間もそれでいい。運が悪ければ死ぬし、寿命がくればみんな死ぬ。100%死ぬ。そうやって自然の循環に還る。だからそれまでに岩魚やテンや熊のようにシネグレにいきていけばいいのだと。シネグレに生きればいい。人生は生きるに値する。

 僕が言ってるのは、都会を否定して田舎にもどろうとか、近代を否定して古代に還ろうとか、そういうことではない。人間も自然である。都会は人間が作ったものである。都会にいようとも自然のルールを守らないといけない。都会のルールはあくまでも自然のルールの下位なんだ。それは、都会がなくても自然はあるが、自然がなければ人間も都会も存在しえないからだ。だから、自然の教えを大事にしないといけないということです。

 たったひとつの死体とそれに対する違和感を引きずって山中を歩いたことで、ずいぶんと多くのことを思いいたったものだと思う。僕は数年前に「幻色の都」の”筆を置く”時、次のように書いた。

 「川を基軸に見ると『幻色の都』は下流の写真であり、『南八甲田』は上流の写真である。
 森は水と土と酸素を作り下流に運んでいる。川によって運ばれたものは下流域で平野を造成しそこに都市が作られる。上流の森や川はきれいな水や土や酸素をどんどんつくり下流へ送り、下流の都市はそれをどんどん消費して汚している。それなのに傲慢になった都市(=人間)は山と森と川をどんどん開発しつくそうとしている。発展し進歩を続け傲慢を助長させた都市の人間は自分の生みの親をも食い尽くそうとしている。そうやって多くの人間の文明が砂漠化してきたのにいまだに気づこうとしない。科学技術が砂漠化を食い止めることができると慢心している。四千年、五千年の歴史をいまだに悔い改めようとしない。
 都会の美しさは幻色である。僕の下流の写真は疑惑である。」...と。
 
 少し苦しい言い訳であった。だけど今になって、もう少しわかりやすい言葉を見つけたような気がする。

  ”都会のルールは自然のルールの下位にある”

う~ん、ようやく「幻色の都」が「南八甲田」につながったなあ。「幻色の都」は「南八甲田」の一部作である。
2007.01.15[Mon] Post 11:27  コメント:10  TB:0  環境問題  Top▲

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2007.01.16[Tue]  投稿者:せいか  編集  Top▲

>せいかさんへ

こんにちは。
ぼくもそういうことを考えましたね。
遺体は、においもせずきれいなままでしたから、ほんの1日2日しかたってないでしょう。
僕が一日早く入山したら、出会ってたかもしれませんね。
逆に、(道もないところですから)、沢へ降りる場所が50mちがったら、発見できなかったでしょう。そうすればもう春までは誰にも発見されないで、白骨になっていたかもしれない。そういう不思議な偶然性を感じますね。
  靴も衣服もザックも全部真新しいもので、頭髪も散髪してさっぱりしたものでした。合掌。
2007.01.18[Thu]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

50m!

きっと、この方は呼んだんですね・・・・iwakiさんを。
偶然ではないように思えます。

もし、またこの世に生まれ変わっているとしたら、
あのときはありがとうって、きっと、iwakiさんのまわりに、すごいサポーターがあらわれますよ。

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私の好きなケン・ウィルバーの引用です。
「年老いた猫は、差し迫る死を迎えて、恐怖の発作に押し流されるようなことはない。静かに森のなかに行き、木の下に丸くなり、死ぬだけである。終末期の病を抱えた駒鳥は、柳の枝に静かに、心地よくとまって、夕日を眺めている。もう光が見えなくなると、最後に眼を閉じて、静かに木から大地へと落ちる。」
こんな死に方に近づけるような生き方をしたいと思ってはいるのです。
久々に此処へ来ました。考えましたよ。
2007.01.18[Thu]  投稿者:えみこ。  編集  Top▲

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せいかさん、ありがっとです。

えみこさん、いらっしゃい。
ケン・ウィルバーですか?僕は読んでません。ブッシュの八百長で負けたゴアが読んでたというのは知ってたけど。そのうち読んでみますか。

読書もいいけど、たまには書を捨て山へいこう(寺山修司なら街へいく^^)ってね(笑)。
2007.01.19[Fri]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

書を捨て・・・

書を捨て、街でも海でも山でもいこう!! 久々にききました。
同感同感。

ワタシは、本読むバカが大嫌い!

本屋は好きだけどね。

特に読書好きな男ほど最悪なのが多い。(乏しい経験上!)

iwakiさん、読書好き? だったらごめんなさい。
iwakiさんは、ロク(誤用!)だと思います。v-238
2007.01.19[Fri]  投稿者:せいか  編集  Top▲

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コメントは基本的に自由です。匿名もネット上では自由です。
ただし、同じスレッド上で同一人物がネームを変えて投稿するのはルール違反と思われますので一部コメント削除しました。ご了承ください。
2007.01.21[Sun]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

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最近、仕事をやめました。
仕事をやめた時、iwakiさんのゆう都会の人であった私が、なぜか上司に対して猛烈にモヤモヤしたものを感じたんです。
自分でも何故だろうと思っていたところ、iwakiさんの今日のブログを読んでいて「そうか!!」と、気がつきました。
少ない休みをわざわざ遠くの自然の中に出掛けていた自分が居た事に納得。
私のなかで、違う!!と感じたことがココに書いてありました。
ありがとう。
2007.01.22[Mon]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

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人を恨むより自分の生き方を変えれば済むことって多いですよね。
2007.01.22[Mon]  投稿者:iwaki  編集  Top▲

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