写真家の山暮らし

Photos of Japan north country and the Photographer’s Journal 南八甲田の麓、奥入瀬川のほとりの山のスタジオからNature Photoを添えて日誌を綴っています。2012.3.11に恵比寿のスタジオをこちらへ移転しました。

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東北古代史の戦場跡で稲刈り

 カミさんの実家の東山町というところは、東北古代史の中心舞台でもあった土地でもある。衣川の南、平泉の東に位置し、かの義経が高館において一望しながら自害した束稲山(タバシネヤマ)は町境にある。安倍貞任ひきいる蝦夷(エミシ)軍が源頼義・義家の朝廷軍を全滅状態に打ち破った黄海の戦いの戦場も東山町の東側に位置する。実家の隣村に流矢という部落があってこれもこの時の戦さの名残らしい。アテルイが征東将軍紀古佐美の朝廷軍を衣川にて打ち破った時、衣川の背後から挟み撃ちにしたのも東山からの蝦夷軍である。どうもなんだかカミさんの実家はずいぶん人里外れた山間にあるもんだなあと思っていたら、どうやら義父の話によると落人の里らしいのです。アテルイ軍や安倍軍の末裔かもしれない?^^;

 そんな歴史を思い浮かべながら、脱穀の手伝いが終わった後、平泉や衣川も含めて近所を散歩してきました。
中尊寺
中尊寺の参道   by PowerShotG9
中尊寺金色堂
五月雨の 降(ふり)残してや 光堂
と芭蕉が詠んだ金色堂。そしておおかた焼失してしまった中尊寺・毛越寺・無量光院などの繁栄の跡を
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡
と詠んだわけだ。

 中は撮影できず。金と漆で飾られた須弥壇がすごい。藤原3代のミイラが実存するというのはなおすごい。奥州藤原がアラビアやアフリカとも交易があったという説もうなずける。宋の磁器などは実際に発掘されている。平泉政権の海外交易の拠点といわれれた津軽の十三湊(とさみなと)は当時、福岡をも凌駕する大貿易港であったらしい。「黄金のくにージパング」というのは奥州平泉のことである。金を産出したのは当時は陸奥の国だけであった。

 金をめぐる争奪戦というのが大和朝廷ー蝦夷(エミシ)の国の戦争の実態であろうか。朝廷側は東北人を蝦夷(エミシ)とか孚囚と罵り一方的に侵攻し続けたのである。8世紀のアザマロからはじまって、アテルイ・モレ、安倍貞任、そして藤原4代にわたって中央政府に抗し続けた服(まつろ)わぬ民こそ蝦夷(エミシ)であった。太閤の天下統一に最後に徹底抗戦した南部九戸戦争、戊辰戦争の奥羽越列藩同盟が最後の抵抗であろうか?
毛越寺
毛越寺の浄土庭園
ここもほとんど焼失してしまい、この大泉が池だけが当時を偲ばせる。規模はケタちがいに大きい。往時には毛越寺だけで堂塔40僧坊500を数え、中尊寺は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」といい、ここを滅ぼした源頼朝の鎌倉など足下にも及ばない。侵攻した頼朝はさぞや驚いたことだろうと思われる。
ただ、藤原清衡の意図は、栄華を誇示するためではなく、前九年の合戦によって父を失い、後三年の合戦によって妻子を失うという波乱の半生をかえりみて、アテルイ・モレも含めて戦争で命を失った敵・味方の人々、さらに動物から草木に至るまで等しく供養し、戦争のない平和で平等な社会をつくりたいということであった。そしてそのためには、学識の高い全国の僧侶をこの地に集めて高い文化と教養を根づかせるためにケタちがいの仏寺を建立し、その知識を「楽土」建設に還元し、さげすみによってくり返された蝦夷(エミシ)の悲しい歴史を克服するという決意をこの建設に込めたようです。(清衡は、大和朝廷=天皇ー公卿政治とはちがう民主国家=「楽土」建設を目指した。)
 それ以降、百年にわたって奥州平泉というこの時代にもまれな平和都市が続くわけです。

 しかし結局「楽土」平泉は、三代秀衡(ひでひら)が招き入れた源義経(みなもとのよしつね)が災いして頼朝につけこまれ滅ぼされるわけですが、僕が勝手に思うに、返す返すも残念なのは、黄海の戦いで頼義・義家父子を討ち損ねたことですね。ここで討ちとっていたら安倍貞任の政権が立っていたはず。貞任なら朝廷粉砕を躊躇せず打ち破っていたかもしれないということ。そしたら日本の歴史は変わっていましたね。ザンネン。
 多くの歴史家や評論家たちは三代秀衡(ひでひら)をほめそやしますけど、僕は義経など呼び寄せる必要はなかったと思うし、この人は案外とだめだったんじゃないかと思うわけです。後継者も長子の国衡ではなく泰衡に指名しているのも疑問です。国衡の母が蝦夷で泰衡の母は京下り公卿直系の藤原基成の血筋であったということをその理由だとするとそのあたりから問題ですね。国衡の方が蝦夷直系なわけで後継にすべきだったのではないか?ただこの辺はよくわかりません。書物はほとんど焼失してしまったわけだし、歴史とはほとんど勝者側の記述なわけですから。蝦夷(エミシ)には長子相続の伝統はないというのも事実です。貞任も次男だったし。
毛越寺






2008.10.24[Fri] Post 11:17  コメント:0  TB:0  日誌  Top▲

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