
2009.10.22 南八甲田
静かな山から街に下りて来ると、際立ってその喧噪さにいらついてしまう。比較しなければいいのだろうけれど、僕はそれほど悟っているわけじゃない。
何が一番気に入らないのか?物理的な音量とかではない。それは山の方が多いだろう。
そうではなく、軽々しい饒舌さなのだ。
中身はないのにただ饒舌で能弁でやかましい。音だけではない。イケメンも、美文も、絶口調のお笑いも、ただうっとうしい。最近とくにうっとうしいのは、反論の組み立てだけは絶対に負けないという人間だ。中身では負けていると解っているくせに折れない人。ようするに中身はどうでもいいのだ。論争に負けさえしなければいいと思っている。これもアメリカンだなあ。だって、謝ったら自分が悪いと認めたことになるという考え方なんだもん。ぶつけたって絶対に謝らないというメジャーリーグと同じだね。
だから最近は、訥々(とつとつ)としかしゃべれない人を見たりするとなんかほっとしたりする。
それが、辺見庸さんが同じようなことを書いていた(東京新聞「水の透視画法」)。辺見庸さんは前から注目していたけれど、ガンに倒れてからよけいに共鳴するようになった気がする。僕も死期が近いのか(笑)。

今年の八甲田の紅葉は、絢爛とはほど遠いです。まばらで鮮やかさに欠ける。時期に遅れて入山してかえってよかったのかもしれない。こういう年は、晩秋の方が味が出る。