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若松孝二の映画
完全でないものをゆるせ
本格的に山の写真に取り組むようになってから僕はこういう考えを持つようになっていた。 ゆるす寛容性が山にはあるのだと。もっと端的に言うと、自然のなかには完全なものとか完璧に純なものなどひとつもないのだと。 テアトル新宿で今上映されている若松さんの映画を観て、そういうことを思い至ったのだ。 花ひとつとっても被写体として完璧なものなどひとつもない。 ![]() ミズバショーが群生しているが何百万の花をくまなく探しても完璧な花というものはないのだ。どこか枯れたり色がにじんでいたり形にゆがみがあったりしているものだ。 ![]() そういうことは(=純ではないこと、完全ではないこと)、マイナスなのではなくて、その多様性こそはむしろ豊かさなのだと気づかされたのである。 人間社会にもこの多様性が大事なのだと思う。 悪いものは全部排除しようというのは、やっぱりあぶない考えなんだ。ナチスやスターリンみたいになってしまう。原理主義とおなじでそういうのはみんなあぶないんだよね。時々ぐーたらだったり、不純なものが混じってたりした方がいい、というのは前々から感じていたことだが、南八甲田の自然の寛容さというのはそれに確信を持たせてくれたような気がする。なぜまじめで純粋なのがいけないのかと言うと、自分の考えていることは正しくて、やってることは純粋だと思いつめてしまうからだ。それがなぜあまりよくないのかと言うと、やっぱり人の意見を聞かなくなるからだね。適当にいいかげんな方が自分の考えや行動を修正しやすいのかもしれないね。 そういうことをこの映画を観て思った。若松さんは最後に加藤少年に「勇気がなかったんだよ」と叫ばせた。そのとおりさ。でも森と永田はちがうでしょ。もっと深いところのものは何?マルクス主義も含めた近代思想の問題じゃないかな。自然の教えを忘れてしまったところの。人間は純なもの、完全なものを作り出せるというのはすでに傲慢でしょ?自然界には純なものは何ひとつないんだから。 でもこの映画は傑作ですね。若松さんは最高の映画を作った。最高のドキュメンタリーを撮った。それが彼の仕事だからそれでいいと思う。解明するのは彼の仕事ではないよね。 タイトル変更
ブログタイトル変更しました。
別立てで開いていた「Gスタジオから」を閉鎖してこちらに統合したための措置です。 いろいろ試行錯誤しているので度重なる変更でご迷惑をおかけします。 ネットへの関わり方ほか模索している最中ですのでご容赦ください。 山にこもると、ネットもケイタイも不通になりますが、そのなんて「自由」なこと!いかに普段よけいな情報にさらされているのか実感しますね。情報過多というのは国民に思考停止させるための国家の陰謀ではないかと勘ぐったりしてね^^; 情報が多くて整理する時間もなければ人の意見(ただの情報)を鵜呑みにする場面も出てくるでしょ?そういうことが毎日のように起こる。これは誰がなんと言おうと危険なことに違いないと思う。それにネット発信というのは安易すぎる。自ら検証もしないままーキーボードで打ち込んで読み直しもしないまま書く込むーというような安易な発信はやめようと思う。そんなことを今考えてます。 ![]() 鬼のような風が吹き荒れて美しいシュカブラができあがる。レンズと指がフリーズしないか気が気でなかった。北八甲田。 厳寒から春山へ急降下![]() 立っていられない強風。強靭でなるGITZO三脚が基幹部(カーボンではなくてダイキャスト部)から折れた! ジェットコースターのように急展開した八甲田から戻ってきました。 3月8日は凄い一日だった! しかもこの日だけ。9日以降は気温が急上昇して冬山が一気に終了してしまったのです。ずばりとねらいが当たって最高の撮影日和になり驚いています。一日ずれたら不発に終わってましたね。 7日に東京から10時間かけて現地入りしてそのまま駐車場で車中で寝て朝に登頂。見事な快晴、信じられない強風、残っていた厳寒期の風景。撮影の条件は300%でした。 一月に入山した時は、条件が悪くてあきらめたシーンを撮ることができました。1月、2月は吹雪続きで条件が悪い、厳寒期の最後である3月はじめに入山して一発で撮影しようとねらいを定めていたのです。こんなにねらい通りにはまるとは!完璧でした。冬の八甲田の最高の写真が撮れました。こんなのは10年に一回しかないでしょう。 実はその日宿泊した避難小屋にはもうひとりのカメラマンがいたのです。秋田在住のプロ、大川清一さんという人。「鳥海山」の写真集を出している人です。彼は鳥海山に200回登頂したという猛者です。彼は5日小屋に泊まって一日も晴れなかったそうです。僕が行ったその日だけ見事に晴れた(その後も快晴はなし)と彼がぼやいてました(笑)。しかも快晴の日にカメラが壊れて!(ぼくの三脚ジッツオも折れましたが)、彼はまた根性を出して下山して控えのカメラをとりにもどったのです。 「行けますかね?いわきさん。こんな晴れる日はめったにないでしょう?」 「えっ?夜に下山して朝戻ってくる気?」 「ええ。ヘッドライトつけて」 「まあできないことはないけど、ハードだよ。沢ぞいにいけば足あとついてるからなんとかなると思う。沢下ったら下の方に温泉の灯りが見えるからその方向に降りればいい」 で、彼はほんとに夜の1時ごろひとりで下山して朝には戻ってきたのです!すごい体力。話を聞いたら彼は元自衛官、しかも「空挺師団」だったそうです。なるほど。残念ながら翌日は曇りでダメでしたけど、彼の根性は見上げたものでそのうち必ず一流の山岳写真家として結実すると思う。 僕はたった一泊でねらいの全ての写真を撮り終えた。彼は撮りそこねた部分もあるのでもう一泊すると言ってましたが残念ながら次の日から天候はくずれました。お疲れ様です。大川さん、東京で酒でも呑みましょう。 この一日で冬の八甲田は終わりました。樹氷も融けてしまいましたね。かつてなら信じられない気象変化です。地球温暖化はかなりドラスチックに進んでいるようです。 僕はさっさと下山して翌日から場所を変更して春山風景にねらいを変えました。そこでも従来ならなかなか見られない風景を撮ることができた。ほんとに幸運でした。まだまだ僕は山の神様に好かれてるようです(笑)。 冒険してみよう
こういう物言いをするとなにかカッコ悪くて恥ずかしいかのような風潮が最近ありませんか?そつなく安全にだけ生きていこうというちぢこまった生き方。
「リスクを冒さない人生って楽しいのか?」とオシム監督が、思い切って攻撃に参加しようとしない選手に向かって言ったそうです。 まったくその通りです。 僕はこの一年、リスクをともなう撮影行を何度か試みました。 たかが写真だけれど、厳しくも美しい自然の、見る人の心を動かすような写真を撮ろうとする時に、ただ安全にだけ行動してそういうものが撮れるのだろうか? 人があまり入り込めないところだからこそかつて見たことのない風景がそこの存在するわけだし、そういういまだきちんと記録ー表現されていない未踏の風景があるのならそれを撮影することは価値あるものにちがいないと僕は思う。 そこらへんにどこにでもある見慣れた風景を、技術とセンスとかいうものだけで表現する写真があったとしても決して否定はしないが、それだけでははっきり言っておもしろくないじゃないですか。 言い方を変えると、 自然というのはもっと奥深いのよ、もっと奥深く入ってきてごらん、もっと見せてあげたいほんとうの美しい、驚くほどの多様で豊かな姿があるのよ、と山の神に誘われたような気がしたのかもしれないですね。 安全にだけ生きようとして、挑戦も冒険もカッコ悪いかのような、そんなヘタレの言い訳の類いだけは吐くまいと僕は思う。だから誰々に対して言っている訳ではなくて自分に対する戒めなのです。大事なところで勇気を出し冒険する心がなければ決して山の神様はその美しい姿を見せてはくれないのだと。 僕がいつもそういう勇気ある決断を下しているかというと決してそうではなくて、逆に躊躇した決断をいっぱい犯していて後々何度も後悔しているからこそ、勇気を出さなければならない瞬間が必ずあると考えるようになったのだと思う。 山では規則や倫理というものは何もない。山と自分だけの関係がある。注意を怠れば事故や遭難に見舞われるという緊張関係がある。自然と調和できれば楽園に住むような平和的関係になる。 平和も緊張も全て、自分ひとりの判断、心がけ、準備などがもたらすものである。言い訳などできないし、その関係に曖昧さなど入り込むはずもない。 幸運であったとか不運であったとかそういう要素はあまりないと思う。 運不運の要素が大きいように思える雪崩ですらそういう要素が入るのは事故が起こった後の段階の話であって、事故以前にほとんどの場合、判断、心がけ、準備を怠らなければ避け得ると思われる。雪崩が起きる地形、気象などの条件というものは限られている。その条件というものを全て消していけばほぼ事故を回避できる。 たぶん理論的にはまちがっていない。 それでも不確定要素は必ず入り込んでくるものだということは否定できない。それを否定するほど僕も傲慢ではない。疲労が重なれば判断力もにぶるし、疲れていてついコースをショートカットしようとか危険なコースを選んでしまうとかして危険を自ら招き入れることは僕もさんざん経験している。 やってはいけないという頭ごなしの規則とか倫理というものはないのだ。だけれども「やってはいけない」ことをすれば身を以て罰せられるし、窮地に陥るのだ。机上の論理や学説などは何の役にもたたないし有害ですらある。 そういうことを僕は理解しているつもりだ。それでも理屈というのはいつでも言い訳なんだよね。理論というのはいつでも現実の歴史から遅れて構築される。そういうことは特に山ではもっと直裁的に現れる。科学や理論ではなくて本能や直感が大事なんだ。野生動物たちに科学や理論などありっこないがきちんと危険を回避できるんだから。人はそういう野生の力を失ってきたんだよね。それは「科学」という言葉を持ってして本能とか直感というものを排除することによってよけいに加速されてきたのだと思うわけです。 理性や経験を否定するわけではけっしてなくて、野生の力もどこまで取り戻せるのかどうかも試してみようと思ってるわけです。まあ、思い込みと言われてもしょうがないけど僕自身はそういう力を幾度か感じたことがあります。根拠を示せと言われてもどうにもならないのでまあ適当に笑ってください。そういうことも考えながら今回も入山してきます。ではでは。 ![]() 秘湯谷地温泉を追悼する |