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ひとつの初心![]() 米も麺も食い尽くしたので、きのうから草ばかり食っている。ウサギなみだな。コゴミ、山ウド、ミズ、、、、ほらこの倒木のむこうにもバッケがいっぱいある。この時期は1ヶ月彷徨しようと死にはしないさ。コーヒーと黒砂糖と塩と味噌と酒がまだある。でもあまり力入らないのでそろそろ下山するかと思い始めている。彷徨しにきたわけじゃない、そんなことはわかってるさ、何日も歩いて何にも撮れなくたって歩いてみなきゃわからないだろう、そんなことをぶつぶつ自分に言い聞かせながら、わかってるさわかってるさと、だんだんあせりを感じ始めているのは食いものが足りないせいじゃないのかと言い訳じみたことを考えているわけで、やっぱり変だな、下りるか。身体はもう谷を向いていた。やっぱり初心に帰る必要がある。レンズ持ちすぎだ。それを減らして食料を増やすべきなのだ。機材の量でいい写真が撮れるわけじゃないという初心。 人間の野生のちから![]() Canon EOS1DsMKII /EF16-35mm F2.8L II 雲がすごい勢いで流れている。気圧の谷間に入ったのかもしれない。 こういう時に稜線などにテントを張っていると怖い。とにかくここ数年は天候の変動というのが激しくなっているようで油断できないものだ。カミナリにしろ強風にしろ豪雨にしろ激しくなる傾向がある。僕だってたいしたベテランではないが、ここ50年や100年の経験値を越えるような天候の変動が時々表面化しているわけだから、人間の経験値など大自然の前にはたいして役に立たない。理屈や経験値などに縛られることなく古代人のように心が震えるままに自然を怖れおののき退避した方が危機を回避する場合がある。野生動物はきっとそういうものにしたがって行動している。岩魚がまったく岩陰から出て来ないという時は、決まって夕方に大雨になって一気に川が増水したりする。野鳥などもさえずりがまったく聞こえて来ない時も天候が急激に悪化したりする。動物達は気圧とか気温とかの変動に人間よりも数倍するどいセンサーを備えているわけだ。人間も科学とかにたよる以前はきっと今よりもするどかったのだろう。 だけど、人間もまだそういう力があるのだと僕は時々思ったりする。単独で山に入って、一週間も経ってくると、まず音に敏感になる。ガサッという音、コソッという音にピクッと反応し始めている自分がわかる。例えば、この時期なら山中でテントを張っていて、シュラッという霜が融けて落ちる音まで聞こえたりする。嗅覚もそうだ。薮を漕いでいてケモノの臭いを察知したり、倒木をまたいだ時にキノコの臭いをかぎわけたりする。視覚もきっとするどくなっているのだろう。ただ僕は常に眼を使った行為に集中しているのでかえってそのちがいがわからないように思う。気温の変動は肌でわかる。気圧の変動というのもどこかでわかっているのかもしれない。何気ない不安な気持ちが広がってくる時というのはひょっとしてそういうことに関係していたりするのかもしれないね。 理論とか経験値だけではなくて、もっと人間の野生の力というものを信じようと思い、時々それに従った行動をとるようになったのはせいぜいここ3.4年のことだ。そういうことをいちいち説明するのはめんどうくさいし、できもしないし、そういう時は、山の神の声が聞こえた、と言ったりするのだ(笑)。 この写真を撮った後、僕は、暗いなかランプをつけて無理矢理テントを撤収して山麓の温泉まで下った。その夜から翌日まで雨が続いて、僕は朝からたったひとりで温泉につかっていた。ただ疲れて温泉に入りたかっただけなのかもしれないけどね(笑) なぜNatureと向き合う?![]() 「なぜ岩木は、突然、山の写真に向かったのかわからない」と僕の古くからの友人に言われたことがある。「なぜ?オレにはその理由がわからん」という団塊世代特有の断定的問いかけ。 ここには、何かしらどんな物事であろうと合理的説明ができるという不遜な考えがある。それに対する僕の答えは逆に、この質問の仕方そのものの中ににあると言い返すことができるかもしれない。 合理的説明、科学的認識の到達しえない深さが自然の中にはある。というか、そういう不可知の領域が数多くあるということを教えてくれるのだ、自然というものが。僕が合理的思考を否定しているわけでは決してない。むしろまったく逆で僕は一貫して唯物論者である。そういう観察態度をもって接していても本質に迫れない多くの事柄が自然界には存在する。だからこそいっそう惹かれていったのだと思う。そういうものに触れる度に僕は僕の考え方の未熟さに気がつく。僕は山中で一人で自然をみつめてそれをとって返して人間や社会を見直したりする。 こういう質問をする人たちは、「自然よりも人間や社会をとらえることの方が深淵だし高尚である」という不遜がある。「人間中心主義(という言い方をするといい意味の方に誤解しかねないので、人間自己チューと言った方がいいかもしれない)」というヨーロッパ近代思想の限界もここにあらわれていると言ったら彼はきっとムッとするだろう(笑)。でも彼らは戦後民主主義の良心的な部分でもある。非合理なものに突き動かされ侵略戦争へと導いた戦前の思想へのアンチテーゼの体現者である。だけど僕が向いているのはそういう(昔に帰れというような)おろかな復古主義ではない。懐古主義でもない。そういう安易な懐古主義に対する警戒心はぼくも常にある。 こういう話し方だけでは僕の友人はけっして納得しないだろう。僕もそれだけで説明するつもりはない。いずれ少しづつ話すことができたらしてみよう。理論的整合性のある話など僕にはまだできない。まず山に向かうスタンスだけの話をしよう。 南八甲田の奥深く、森を歩き川を渡って写真を撮っていると、時折、山の神の声が聞こえてくる。その声はまぎれもなく錯覚だ。だけどその、源流を単独で遡行している時にしか聞こえないその声と対話しながら僕は、自然と人間の生き方について考えなおしてみようと思っているのだ、と。 山の神の贈り物
山の神様の贈り物ですかね?
すばらしい仕事が舞い込みました。 一年間通して八甲田をじっくり撮影できるオファーです。 近々正式に発表されると思います。 昨年末、南八甲田の竜神様を上から下から遠くから、ていねいに撮ってやったお礼の贈り物であると勝手に信じてます(笑)。 ま、そんなホラ話はほどほどにして(オファーはほんとのことです)、 あすから、入山します。(今日の青森は雪が降ってるようです。ホラ、呼んでるね^^;)ではでは。 あせってもしょうがない |