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写真展日時のおしらせ
とりあえず日時だけ決まりましたのでお知らせします。
***2009年1月5日(月)〜14日(水)、キヤノンギャラリー銀座にて、カレンダー掲載作品を中心に。 ***2009年1月5日(月)〜30日(金)、品川キヤノンSタワー2階オープンギャラリーにては、別のテーマで写真展を準備しています。 キヤノンギャラリー銀座のオープン日1月5日には簡素ながらパーティを準備していただける予定ですので、ぜひスケジュール空けておいてご来場ください。 矢櫃の森のマザーツリー![]() EOS1Ds Mark III EF17-40mmF4L 2008.10.11 どの山にも森にも川にも、神様のような象徴的なものが存在する。岩であったり木であったり滝そのものであったりする。この木にはとりわけ僕は思い入れが深い。ネイティブアメリカンのように言えばマザーツリーかなあ? この木は「神成りの木」という。僕が勝手に名付けた。かみなり=雷が落ちたと思われる木だったからだ。神様がお成りになったのである、と勝手に僕は言い始めた。(実際、雷を神成りと言う言い方は地方に存在する。) この木との出会いで僕は、NaturePhotoを撮ることに対してある種の確信を持ったような気がする。文句なしに人の心を揺り動かすものが大自然のなかにあるということ。それをさがし歩くのも悪くはないと。 この森に入ると僕はとりあえず拝みに行く。最初に出会ったのは2003年でそれから5年たったことになる。写真集「南八甲田の森をゆく」に掲載してあるが、その時とはずいぶんと変わってきた。当時はもっと激しさがあって雷がおちた直後のような姿だった。その後、時間がたって枯れて朽ちていくのだろうと思っていたが、そうではなくて丸みを帯びてしなやかになりむしろ威厳を増したように見える。あいかわらず元気そうでなによりです。5年前と同じように、ザックをおろして、絨毯のようなブナの枯れ葉の上にねまり(座り)、一献かたむけたのです。 この木よりも僕が朽ちる方が早そうだな(笑)。 荒ハバキと日高見の国
東北地方は、古代ー中世ー近世を通じて蝦夷(エミシ)の国と呼ばれていたわけですが、
もちろんこれは中央政府側ー西の国の人々の蔑称なわけです。正式には陸奥の国ということが多いけれど、これもまた、道の奥=みちのく、という言葉の流れからとってつけたと差別的な用語でこれも大和朝廷側の名称なわけです。 当時の大陸=宋の国の古書には、日本の東北地方のことを「日高見の国」と記されていて、大和の国とは別の国として認識されていた。日本書紀にも出てきます。「武内宿禰が東国を巡視し、東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきであると報告した」とあります。 こういう史実をひも解くことは、現在の東北の自然や文化を語る上で、避けて通ることのできない問題を含んでいるからで、まあ、たまにはぼくにつきあって読んでいってください。 蝦夷(エミシ)というのはもちろん朝廷側の蔑称なわけですが、古代東国の人々がなぜこれほどまでに、いわれなきほどの差別を西国の人々から受け徹底的に蹂躙され続けてきたのかというのはかなり疑問なわけです。蝦夷の女たちはことごとく犯され男達は奴隷として捕らえられ孚囚とされて柵の中に閉じ込められた。反抗する者たちは蝦夷(エビス)となって何百年にもわたってゲリラ戦を挑んできたわけです。 これは大和朝廷が、外国を夷荻(野蛮人)と呼んで東夷、西戎、南蛮、北荻として差別した中華思想を模倣をしたというのもあります。チンケな公卿のサル知恵と言ってもいい。これを日本にも適用しようとしたわけです。 それにしても、例えば西方の朝敵、隼人族や熊襲に対するよりもずっと激しい敵意と差別をもってあたったような気がします。それはただ単に、国家統一の過程で暴力的な統一を進めたという政治的理由だけではなく、さらに金と馬という重要な資源奪取という経済的な理由だけでもない、それ以上に理由があったのではないかということです。 なぜか? 一つの推測として、 天孫系=蘇我氏勢力と対抗して破れ、東北に逃れ住んでいた物部氏にも関係しているのではないか?というのがあります。 物部氏は古代において、蘇我氏(前述の武内宿禰などは蘇我氏と言われている)の主張ー仏教を取り入れて天皇を中心とする中央集権国家をつくるべきという意見、に徹底して対抗した勢力と言われている。物部氏は、地方分権もしくは連邦制のようなものを主張し、仏教ではなくて地方の多神教をそのまま残そうという意見だったようです。 物部氏は権力闘争に敗れて東北に逃れるわけです。つまり天皇ー大和朝廷統治を否定した許すべからざる勢力だったわけですね。この物部氏が朝廷に対抗する蝦夷勢力を陰で支援していたというわけです。 物部氏に関係すると言われているのが、東北各地に散在するアラハバキ(荒覇吐)の神という民俗信仰ですね。アラハバキは製鉄と黄金の神様です。製鉄技術は物部氏が持ち込んだ。これは後に南部鉄器につながってくる。強力な蝦夷刀もこの技術のおかげです。金は東北各地で産出していた。義経伝説のあたりで「金売り吉次」という商人が登場しますが、これは代々東北の金山の頭領だったようで、これも実は物部氏そのものではないかという説すらあります。岩木山は実はアラハバキのご神体とも言われています。 安倍氏もアラハバキ信者であったと言われています。衣川に磐神社というのがありますが、これがそうです。この荒神社は、東北各地に100近く存在するようですが、鎌倉政権以降はかなり弾圧されて縮小の道をたどりその後こっそりと隠れるように存在し続けたようです。 この荒神社ですが、僕は今回散歩してそれらしきものを偶然見つけたのです。東山の実家からほんの20分くらいのすぐ近くにありました。 ![]() PowerShot G9 地元では、「荒神様」と言っているがどうも荒ハバキではないかと思います。「火産霊神社」と名乗ってました。火産霊!どうみても製鉄ですね。もちろん真偽は不明。ただの推測ですが。 ![]() 口上を読むと、ご祭神として、火産霊神(ホムスミノカミ)、大己貴命オオナムチノミコト(注。これは大国主神オオクニヌシノミコトの別名)、素戔嗚命(スサノオノミコト)、軻遇突智命カグツチノミコト(注。これも火の神)、天目一筒命アメノヒトツツノミコト、国常立命クニトコタチノミコト、とあります。ただこれは昭和以降に立てられた札ですから伝承から近代人が書き起こしているわけで、これ自体はうのみにするわけにはいかないのだけれど。 ![]() 境内にはいくつもの岩が列挙してある。 「古峰神社」とは鹿沼市にある神社ですね、たぶん。「大国の神」もある。「庚申」とは干支のことか?庚申は、Wikipediaによると「庚申は干・支ともに金性である」とある。不明。 「黄金山」とあるのは、宮城県小田郡にある黄金山神社のことか? この神社は東北の神社では重要です。日本で最初に金を産出したとされる小田郡に設けられた神社。天平21年(749)当時の陸奥国守百済王敬福が、小田郡産出の黄金(砂金)900両(約13kg)を朝廷に献上した。この金が世界最大の金銅仏(銅に鍍金して仕上げる仏像)である東大寺の大仏 に使われた。天皇は宣命を発して大いに喜び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改めたほどだ。この時期あたりからはげしく大和朝廷側の東北侵攻が始まったわけです。 いやあ、古代史の回廊をめぐっているようでおもしろい。 ![]() これはいったい何だろう?社殿の正面に飾ってあった。鉄製の剣か何かではないか?とすればますます製鉄の神である荒ハバキであるように思える。 ![]() 神社のすぐ前に、ぞくっとするようなそれらしい雰囲気たっぷりの古木がありました。遠くから見てすぐハッと気づくほどの異様な気を放っている見事な古木でした。まさしく妖木ですね。素晴らしい。 ![]() 別に僕は信者でも何でもないのですが、歴史をたどる上で民俗信仰というのは重要な手がかりだからです。浅はかで的外れな言いがかりはやめるように、ぶ〜やのS君(笑) ガリ勉のお知らせ
ガリ勉は、ガリバースタジオが主催する写真やデジタル全般にかんする勉強会で誰でも参加できます。
11月5日(水)午後7時から 恵比寿ガリバースタジオ 予定してます。 参加希望の方、メールでおしらせください。 東北古代史の戦場跡で稲刈り
カミさんの実家の東山町というところは、東北古代史の中心舞台でもあった土地でもある。衣川の南、平泉の東に位置し、かの義経が高館において一望しながら自害した束稲山(タバシネヤマ)は町境にある。安倍貞任ひきいる蝦夷(エミシ)軍が源頼義・義家の朝廷軍を全滅状態に打ち破った黄海の戦いの戦場も東山町の東側に位置する。実家の隣村に流矢という部落があってこれもこの時の戦さの名残らしい。アテルイが征東将軍紀古佐美の朝廷軍を衣川にて打ち破った時、衣川の背後から挟み撃ちにしたのも東山からの蝦夷軍である。どうもなんだかカミさんの実家はずいぶん人里外れた山間にあるもんだなあと思っていたら、どうやら義父の話によると落人の里らしいのです。アテルイ軍や安倍軍の末裔かもしれない?^^;
そんな歴史を思い浮かべながら、脱穀の手伝いが終わった後、平泉や衣川も含めて近所を散歩してきました。 ![]() 中尊寺の参道 by PowerShotG9 ![]() 五月雨の 降(ふり)残してや 光堂 と芭蕉が詠んだ金色堂。そしておおかた焼失してしまった中尊寺・毛越寺・無量光院などの繁栄の跡を 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 と詠んだわけだ。 中は撮影できず。金と漆で飾られた須弥壇がすごい。藤原3代のミイラが実存するというのはなおすごい。奥州藤原がアラビアやアフリカとも交易があったという説もうなずける。宋の磁器などは実際に発掘されている。平泉政権の海外交易の拠点といわれれた津軽の十三湊(とさみなと)は当時、福岡をも凌駕する大貿易港であったらしい。「黄金のくにージパング」というのは奥州平泉のことである。金を産出したのは当時は陸奥の国だけであった。 金をめぐる争奪戦というのが大和朝廷ー蝦夷(エミシ)の国の戦争の実態であろうか。朝廷側は東北人を蝦夷(エミシ)とか孚囚と罵り一方的に侵攻し続けたのである。8世紀のアザマロからはじまって、アテルイ・モレ、安倍貞任、そして藤原4代にわたって中央政府に抗し続けた服(まつろ)わぬ民こそ蝦夷(エミシ)であった。太閤の天下統一に最後に徹底抗戦した南部九戸戦争、戊辰戦争の奥羽越列藩同盟が最後の抵抗であろうか? ![]() 毛越寺の浄土庭園 ここもほとんど焼失してしまい、この大泉が池だけが当時を偲ばせる。規模はケタちがいに大きい。往時には毛越寺だけで堂塔40僧坊500を数え、中尊寺は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」といい、ここを滅ぼした源頼朝の鎌倉など足下にも及ばない。侵攻した頼朝はさぞや驚いたことだろうと思われる。 ただ、藤原清衡の意図は、栄華を誇示するためではなく、前九年の合戦によって父を失い、後三年の合戦によって妻子を失うという波乱の半生をかえりみて、アテルイ・モレも含めて戦争で命を失った敵・味方の人々、さらに動物から草木に至るまで等しく供養し、戦争のない平和で平等な社会をつくりたいということであった。そしてそのためには、学識の高い全国の僧侶をこの地に集めて高い文化と教養を根づかせるためにケタちがいの仏寺を建立し、その知識を「楽土」建設に還元し、さげすみによってくり返された蝦夷(エミシ)の悲しい歴史を克服するという決意をこの建設に込めたようです。(清衡は、大和朝廷=天皇ー公卿政治とはちがう民主国家=「楽土」建設を目指した。) それ以降、百年にわたって奥州平泉というこの時代にもまれな平和都市が続くわけです。 しかし結局「楽土」平泉は、三代秀衡(ひでひら)が招き入れた源義経(みなもとのよしつね)が災いして頼朝につけこまれ滅ぼされるわけですが、僕が勝手に思うに、返す返すも残念なのは、黄海の戦いで頼義・義家父子を討ち損ねたことですね。ここで討ちとっていたら安倍貞任の政権が立っていたはず。貞任なら朝廷粉砕を躊躇せず打ち破っていたかもしれないということ。そしたら日本の歴史は変わっていましたね。ザンネン。 多くの歴史家や評論家たちは三代秀衡(ひでひら)をほめそやしますけど、僕は義経など呼び寄せる必要はなかったと思うし、この人は案外とだめだったんじゃないかと思うわけです。後継者も長子の国衡ではなく泰衡に指名しているのも疑問です。国衡の母が蝦夷で泰衡の母は京下り公卿直系の藤原基成の血筋であったということをその理由だとするとそのあたりから問題ですね。国衡の方が蝦夷直系なわけで後継にすべきだったのではないか?ただこの辺はよくわかりません。書物はほとんど焼失してしまったわけだし、歴史とはほとんど勝者側の記述なわけですから。蝦夷(エミシ)には長子相続の伝統はないというのも事実です。貞任も次男だったし。 ![]() |